シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015/08/27(木)16:08

ネット情報の活用法 その1137

神秘体験空間(2117)

 この世に生まれてくるときは誰もが天国の平和の使者なのに、この世に暮らすうちにすっかり地獄の虜になってしまうのが、ほとんどなのは、恐らく大半は宗教のせいにみえる。  宗教者が一番改心が必要なのに、従来の在り来たりな物質生活に安住の地を求めるのでは死とともに滅ぶだけである。  つまり宗教者自体が唯物論に染まり、天国を否定している。だったら死んだらどうなるのかをちゃんと説明しないとおかしい。意識はどうなるのか? 消えるのなら、どうして意識が生まれるのか? 無から有がなぜ生まれるのか?  天国とは何か? どうしてこの世は地獄となるのか?  そういう疑問の答えをみつけるのが宗教なはずである。いつまでも御釈迦さんの言葉にすがっていては駄目である。自分の人生なんだから、自分で答えをみつけないと自分で生きたことにならないではないか?  せっかくの天国の使者がこの世を地獄にしてしまっては元も子もないから、再度、この世を地獄にしないために、地獄の要因を三つ挙げると、1.上下の支配関係=不自由さ 2.生存競争 3.金儲け主義である。  この3つはラムサの教えからもわかるが、天国への道を阻むものである。そろそろ気づいてもいいのではないだろうか?  この国の第一の宗教者といえばやはり空海が挙げられるが、空海だって人間なんだから、崇拝対象ではない。そもそも我々人間も生物も皆神から出たものだから、皆同胞なんである。つまり仲間なわけで、仲間割れをすることもあるが、やはり仲間としての共通要素がいまも神から出ているわけである。  誰もが神との絆をもっている。この絆を手繰り寄せるのはあなた自身なんである。  空海さんはそのことを知っていたようにみえる。ただ常人と違うのはその一点を知っているかどうかだろう。空海さんは自分が崇拝されるよりも、この一点に誰もが気づくことを優先するはずなのがわかるのは、「南無遍照金剛」というお題目である。  皆さま、神様との絆を大切にしましょう!  である。  さて、空海さんは、空海教を唱えたのではなく、密教の真言宗を唱えたわけである。密教とは人の言葉では現わせない真実である。単純にいって、目にはみえない教えである。例えば、妖精などやその働きも、人の言葉(音波)では現わせない。  人間の話す音波は、恐らく聴こえない言葉を話す必要性がないため、可聴音の音域の大体20Hz~20kHzであるはずである。つまりこの音域のなかで意味を表現できる世界(主に人間界)以外の世界も教えるのが真言宗というわけである。だから当然、数学(天文算術)や自然科学(錬金術)なども真言宗の範疇内になる。  空海さんはこの世とあの世との境界をできるだけなくし、そのつながりを示そうとしたわけである。人間の内面に眠る神を金剛のように遍く照らし輝かせることで、その輝く叡智から、この世からあの世へと橋を架けようとしたのである。神との絆をあの世とこの世を結ぶ真言にしたのである。  だからこの国の風習のなかには霊視の名残りがみられるのである。  密教とは別に人の言葉で表せる教えの顕教がある。これは主に御釈迦さんが言葉で表した教えを伝えたものである。言葉で表せるから、筆記でき、お経として伝えられる。だから人間なら馬鹿でない限りは理解できるはずだが、仰々しく難しくして古文のままで教えているから、いまではすっかり、なんのことやらわからないお題目となっている。  本当なら現代語に逐次書き換えて教えるべきだが、書き言葉というのは限界があるので、顕教では限界がある。その証拠に顕教で勉強しても霊界や死後の世界がみれない坊主だらけになっているわけである。死者がみれなくて、どう弔うのか不可思議である。  唯物論では、死んだら無くなるというのに、なぜ弔う必要があるのかも不思議である。生き残った人を安心させるためという説があるが、無縁仏はどうなのか? また、無の存在の死者の供養や葬式のためといって、多額の金銭をふんだくれば詐欺ではないのか、遺族が安心するのは遺族には死者がみえないからではないのか?   見えないからといって宗教を商売にするのは悪逆非道である。  それなら、多額の金銭を無にするよりは、故人と同じ境遇にいて恵まれない人たちの福祉のために使った方が亡くなった本人の供養となり、本人にもよいのではないのか?   この問いに答えられる宗教者はこの国には恐らくいないだろう。それぐらい、この国では宗教が金儲けの道具や資産隠しになっているからである。  つまり、この世を地獄化しているのは宗教者なんである。地獄化すれば死後地獄に行くから覚悟しなさいね。  人は、この世で自分が現実化した世界に行くのだよ。だから自殺すると自殺の世界に行ってしまう。自分で自殺を止めない限りは永遠と自殺を続ける。  つまり、この世で天国をつくるという創造活動をしなければ天国にはいけないのだ!  というわけで、妖精の話を続ける。     ★         ★         ★  火の精(サラマンダ-)  火の精についてシュタイナーが1908年に述べた内容と、1923年に述べた内容との間に矛盾がみられるのを予め述べる(リンク先の管理者)。  前回で、風の精は群を成す蜂のオーラの中に入り込むと述べたが、これは全集102番『霊的諸存在が人間に及ぼす影響』第11章1908年6月1日講演)によるが、全集230番『創造し、形象を生み、造形する宇宙言語に共鳴する人間』第8章)1923年11月3日講演)では、火の精になっている点である。  シュタイナーは36年間に5965回の講演を行ったが、私(リンク先の管理者)が調べた限り、このような明白な矛盾は他にない。だから、本当はむしろ6000回近い講演をこなしながら、ほとんど矛盾した話がないことの方に注目すべきだろう。  しかし私(リンク先の管理者)は、シュタイナーの考えを始めから疑ってかかる人の疑いを増加させる恐れを犯しても、上の矛盾を明かしておく。というのも、霊界を拒否する人は、シュタイナーを読まないので、この矛盾に気づくことはなく、逆にシュタイナーを「導師」として崇めたり、シュタイナーの考えに基づく人智学運動にのめり込んでいる人たちは、たとえ矛盾に気づいても、こうした矛盾を取り上げないと思うからである。  (シュタイナーも人間で、間違って当然である。)  このような矛盾を伝えるのは、シュタイナーの世界観に惹かれ、彼の述べる内容を信頼し、紹介しながらも、彼の著作・講演集をテキスト(文献)として批判的に読むことを心がけている私(リンク先の管理者)のような者の役目だと感じるからである。  それでは、読者が自分で判断できるように、蜜蜂と妖精の関わりについて2つの講演から抜き出してシュタイナーが述べている部分を並べてみる。  「例えば、現代の教育を受けた人が次のように言ったとする。  『シルフ(風の妖精)とかいう名の自然霊が話題になっているが、そんなものが存在するわけがない!』   このような意見の人には、次のような逆説の意味をもった返答をするしかない。  『あなたに自然霊が見えないのは、その存在を知らしめるに足る感覚器の開発をあなたが行ってこなかったからである。では、(そのような感覚器をもつ)蜜蜂にでも聞いてみてほしい。でなければ(同じ感覚器をもつ)蜂の巣の魂にでも聞いてみるといい。蜜蜂なら、シルフについてよく知っているはずだから (中略) 』。  花の蜜を吸っている蜜蜂は小さなオーラを出している。そこに自然霊が近づいていく。特に木にぶらさがるように群がっていた蜂の体内に蜜の味わいのようなものを秘めて群れで飛び立つような時である。そんな時、蜂の群全体が、このエーテルのオーラに包まれているが、この群にシルフと呼ばれる自然霊が入り込む。」(1908年6月1日講演)  「鳥たちが飛ぶのを見ると風の精(シルフ)は自我を感じる。火の精は、このような自我の感情を更に強い形で、蝶や昆虫の世界全体に感じる。植物の雌しべに熱を伝達するために、昆虫が飛ぶ跡を追うのが大好きなのは、この火の精である  (中略)。  花から花へと飛びまわる昆虫は大抵彼らの追跡をうけている。花から花へと飛びまわる昆虫をよく見ると、その昆虫のどれもが昆虫のものとは説明のつかない特別なオーラを発している。特に花の間を飛び回わる蜜蜂は明るく煌めく素晴らしい輝きをもった綺麗なオーラをもっているが、このオーラの説明を昆虫に求めるのは大変困難である。  なぜなら、その蜜蜂はいつも火の精と一緒にいるからである。火の精は常に蜜蜂を身近に感じていたいほどに、蜜蜂を親しく感じているからである。  霊視すると蜜蜂は火の精のオーラに包まれているからである。蜜蜂は大気の中を花から花へと、枝から枝へと飛びまわっている時、火の精により与えられたオーラも伴って飛んでいる。火の精は昆虫に自我を感ずるだけでなく、その昆虫とすっかり結合しようとする。」(1923年11月3日講演)。  なお、1908年の講演は第一次世界大戦前と大戦中にシュタイナーの講演の多くを速記したヴァルター・ヴェグェラーンが記録した。1923年のものは専属の速記者ヘレーネ・フィンクによる。  講演集の記録のほとんどがシュタイナー自身の校閲を受けていないので、誤りがあるのも考えられ、シュタイナーも自伝の中でその可能性について触れ、各講演集の冒頭にその部分が引用されているほどである。  しかし、妖精が境界に現れるという1908年の講演の説明では、地の精は岩石と鉱物の境界、水の精は植物と岩石や水の境界、風の精が動物(昆虫も含む)と植物の境界、火の精が 人間と動物の境界に現れることになっていて、蜂と花が接触する際に現れるのが風の精であると、この時のシュタイナーの考えに間違いはなさそうにみえる。  また、2番目の1923年の説明では、地の精は蛙になるのを恐れ、水の精は魚の姿になるのを厭がり、風の精は鳥に親しいという風に話が進んだ後に、火の精は蝶の世界・昆虫の世界と親しい、といって話が完結しているので、速記者の間違いの可能性は少ないようにみえる。  繰り返すが、このような著しい矛盾はシュタイナーには極めて珍しい。しかし矛盾は矛盾で、はっきりここで指摘しておこうと思う。私(リンク先の管理者)は科学者の冷静さで霊視するシュタイナーの言うことは、他のどんな霊能者よりも信頼しているが、シュタイナーのいうことでも無批判に鵜呑みにしようとは思わない。  様々な予言・霊言の類が押し寄せる世紀末にあっては、こうした姿勢を心のどこかで堅持しておくことも大切ではないかと思う。  (私はこれは矛盾でもなんでもなく、蜜蜂が単独でいるときと、群れでいるときの違いにあると思う。つまり蜜蜂他の昆虫が単独でいるときは、主に火の妖精が結びつこうとするが、蜜蜂が群れをなして、蜜を吸って満足しているときなどは、風の妖精が結びつこうとしている、と考えれば矛盾などない。  つまり、どちらも昆虫を含む動物に関わるので、蜜蜂の群れの集団が植物と関わる場合は主に風の妖精、蜜蜂が単独で花と花の間を飛び、雄しべの受精に関わる場合は人間の農作物とも関係するので、主に火の妖精と考えればよい。例えば、養蜂や養蚕などは、火の妖精が関わり、人間に養育を伝授していることが想定できる。)  さて、ではシュタイナーは火の精の現れ方や役割について他にどのようなことを述べているのか。以下、まず1908年の講演に基づいて紹介する。  火の精の構成要素は前回でも述べたように、未完成な自我、アストラル体、エーテル体、物質体(人間の物質体とは異なる)である。彼らは進化から逸脱したために、人間の姿はとれなかった。火の精は他の妖精と比べて、一番後に生まれ、実に多くの種類がある。その大部分は、後に述べる動物の集合魂から分霊した。  ★         ★         ★  次回に続く。

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