2004/12/17(金)23:19
ママの回想録
「いらっしゃいませ~!」 私は、カウンターの中から、カラオケの音量に負けぬよう、せいいっぱいの大声でそのお客を迎えた。30代前半くらいに見える。濃いグレーのコートにビジネスバッグを持った、見るからにサラリーマンといういでたち。
店は年末ということもあり、ほぼ満席状態だったが、「こちらにどうぞ!」と、一つだけ空いていたカウンター席に手招いた。温めたおしぼりを広げながら、「寒いですね、お仕事の帰りですか?」と聞く。彼は、小さな声で「はい」と言った。頼まれたビールをお酌しながら、「初めてのお客さんだな」と確認し、話を向けるがあまりのってはこない。一人で飲みたい人なのだなと合点して、ほおっておくことにした。
カウンターの中で、つまみを作り、伝票をチェックし、洗いものを片付け、テーブル越しにお客と会話を交わす。カラオケの音、笑い声、踊りまくっている人や、手拍子をしている人、テーブルの間をスタッフが忙しそうに行き来している。一息ついてタバコに火をつける。と、さっきのお客がバッグをかかえて立ちあがり、トイレへと入っていった。カウンターのお客さんにビールをついでもらい、飲み始めた私の目の端に、さっきのお客がドアから出て行く後ろ姿が。「かずちゃん、あのお客さん、会計すんでるの?」バイトの男の子に聞くと「もらってないよ」と言う。「やだ、ちょっと追いかけて連れてきて」の私の声に、かずちゃんが後を追った。
ほどなく、かずちゃんに背中を押されるように彼がもどって来た。私は、飲み屋の優しいお姉さんの笑顔で「会計、忘れちゃったね」と言いながら、《¥1000》と書いた紙を渡す。彼は俯いたまま、何も言わない。私は内心「まいったねぇ」と思い、もう一度彼に向き直った。「お金、ないの?」 小さく頷いたのがわかる。またもや「まいったねぇ」と、心でつぶやいた。
私の店は、繁華街からも駅前からも少し離れた所にあるため、ほとんどが常連客で、いわゆる一見の客というのは珍しい。知らない顔でも、誰かの紹介だったり、近所の人だったりと、全くのフリーのお客というのはめったにないのだ。何度か来てくれている人ならば、ツケでもいいのだが、初めての人となると、たとえ千円でもそうはいかない。ましてや、最初からお金を持たずに来店したのだ。この時はまだ、私もさほど腹を立てていたわけではなかった。「まいったねぇ」くらいのもんだ。
しかたがないので、何か身分証明書のようなものをおいていってくれと、言ってみた。彼は、いやいやをするように首を振り、何も持っていないと言う。免許証でも、腕時計でも、なんでもいいからと言っても、何もないと言う。私はだんだん腹が立ってきた。「それじゃあ、お家に電話して、お金持ってきてもらって」と言ってみると、彼が手を出した。一瞬、なんの意味かわからなかったのだが、電話代の10円さえもないらしい。私はあきれながら、10円玉を2,3個彼に渡し、電話ボックスへ押し込んだ。数分後、出てきた彼は、「女房が来るから」とボツリと言った。
カウンターの隅に座ってもらって、彼の奥さんの登場を待った。彼は、淹れてあげたお茶にも手をつけないまま、一時間も過ぎたろうか? 店のほうも、だいぶ空いてきて、何人かの常連客だけになった頃、やっと奥さんがやってきた。その姿を見て、私は驚いた。大きいのだ。彼は身長160cmほどの痩せ型。片や、奥さんは170cmはあろうかと思われる。加えて横にもでかい。さらに私を驚かせたのは、彼女の背には、まだ六ヶ月くらいの赤ん坊が眠り、右手には2才くらいの子供、左手にはそれよりもう少し上の子供を連れている。化粧ッ気もなく、髪はボサボサで、起き抜けで出てきた様子だ。そりゃあそうだろう。時間は午前1時を回っている。
入ってくるなり、彼女は「ママさんは?」と誰にともなく聞いた。「私です」と言うと、深深とお辞儀をして「あの、おいくらでしょうか?」と言う。「あ、千円です」と答えた私の手に、財布から出した千円札をよこし、「申し訳ありませんでした」とまた、頭を下げた。二人の子供は、パジャマの上にジャンバーをはおっただけの格好で、彼女のコートの裾を握りしめている。私は、なんだか悪い事をしているような気になった。
彼女は徐に、彼女の夫である彼の腕をとると、「帰るよ!」と言った。その目には、憎悪のような激しい光りがあり、私は心の中で一歩後ずさりした。居合せた人たちも、みな黙って成り行きを見守っている。立ちあがった彼の背を突き飛ばすように促し、ドアを開けて出ていく間ぎわに、もう一度、私に頭を下げた。あっけにとられていた私は、慌てて「ありがとうございました」と言ったが、もうドアは閉まる寸前だった。「みっともないったらありゃしない!」という彼女の怒声とともに、ドアがバタンと閉じた。
なんてことないと言えば、なんてことないのだ。ただ、めちゃくちゃ後味が悪く、切ない気持になった。日常を持ち込まない夜の世界の中に、生活臭をたっぷり持ち込まれて、その場に居た他の人たちも、すっかり白けてしまった。気のおけない常連客ばかりだったこともあり、「さあ、飲みなおそうかぁ!」と声をかけたが、今ひとつ気持が持ち直さずに、この夜は早々に店を閉めてしまった。
今ごろの季節になると、なんとなく思い出す店でのひとこまだ。肩を落とした冴えない男、幼子3人の手を引いて千円の支払いをしに来た女、おびえたような子供の目、普段の生活が見てとれるようなやりとりが、見てはいけないものを見てしまったような気にさせられた。そして、ただただあっけにとられて見送ってしまった自分に、情けなさを感じた。もう少し優しい態度ができなかったろうか? 子供にジュースの一杯も飲ませてあげられなかったろうか? 奥さんにお茶でも淹れてあげられなかったろうか? 優しい言葉のひとつもかけてあげられなかったろうか?
今でも思い出すたびに、軽い後悔が胸をよぎる。せめてあの家族が、平和に穏やかな日々を過ごしていることを祈りたい。あの子供たちがすくすくと笑顔で成長していることを願っている。そんなことで、あの時、優しくなれなかった自分への、免罪符としているのかもしれない...
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【賢人訓より】
《道は近きに在り、而るにこれを遠きに求む》...みちはちかきにあり、しかるにこれをとおきにもとむ
人が行うべき道は、ごく身近なところにあるのに、わざわざ遠いところに求めようとすること。
難しいことをしようとしても結局はできないで終わってしまうもの。
家族を大切にし、みんなと仲良くする。そういったあたり前のことができれば、それでいい。