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ロビンソンの ちょっと楽しい縄文生活!

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2014年09月21日
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韓ドラ『広開土太王』の時代 4~5世紀   2014年9月23日追加

DVC00058.JPG ドラマと史実の 広開土大王の時代を参考に作成

韓ドラ『広開土太王』を理解するために Wikipediaなどで調べてみた。

好太王(374 ~412年)は、高句麗の第19代の王。姓は高、諱は談徳。先代の故国壌王の息子で、386年に太子に立てられた。391年に王位に就いた。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。韓国では広開土王・タンドクとも呼ばれる。 

 

≪同時代の日本との関わり年表≫ …真偽のほどは定かでない。天皇は推定。

・紀元前778年 - 紀元前206年 秦は、中国の王朝。

・紀元前221年 秦が中国を統一。紀元前206年に滅亡。国姓は嬴(えい)。中国では、4世紀頃まで朝鮮半島南部にあった三韓の一つの辰韓も、秦と表記することがある。辰韓を秦の難民とする説あり。

・紀元前3世紀頃 中国秦朝の方士の徐福(じょふく)が、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかった。司馬遷『史記』。青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福伝説が残っている。

・前97年~前30年ごろ 崇神天皇 四道将軍に地方の賊軍を平定させた。崇神天皇の生存時期は、3世紀から4世紀邪馬台国の時代との説も。

・前26年ごろ 古事記では、垂仁天皇3年春3月に昔に新羅王子・アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参した事への言及があり、その渡来の記述がある。アメノヒボコと阿加流比売神のひ孫が神功皇后だという説がある。日本書紀では、アメノヒボコがツヌガアラシトだと言われる。 アメノヒボコ=ツヌガアラヒト=新羅皇子≠辰韓≠秦系?移動経路に秦系神社多数。

・?年 垂仁天皇が倭姫に伊勢神宮を祀らせる。

・前18年高句麗の始祖・朱蒙の三子温祚が百済を建国した。? 

首露王 42年~199年 金官国=伽耶=加羅

・202年「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6年(202年)条に「伽耶」と表記。

・210年「三国史記」同14年(210年)条には「加羅」と表記されている。

・邪馬台国の女王卑弥呼?(在位188年頃 - 248年頃)魏と通交し「親魏倭王」の称を得る。

・266年倭の女王が晋に使節を派遣する。壱与?(235年頃 - ?)トヨ?邪馬台国の女王。卑弥呼の親族でその跡を継ぐ。西晋に遣使したと推定される。       

・300年1月新羅は、倭国と使者を交わし、3月には楽浪・帯方の2国が帰服してきた。

・307年、国号を新羅に戻した。

・312年、倭国王から新羅王子の通婚を要求。

・346年、百済は、古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系夫余族による国家

・344年、倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は断った。

・345年、倭国は新羅に国書を送ってきて国交断絶。

・346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。

・362年(?または364年)、神功皇后元年、対馬より半島に至り、新羅王都にいたる。(日本書紀)。

・369年倭国が朝鮮半島南部に任那を建国、倭国の北限とする。 仁徳天皇??

・369年石上神宮に所蔵されている七支刀は銘文によるとこの年に作られたか。

・375年フン族が移動しゲルマン民族大移動の発端

・377年に前秦に初めて新羅が朝貢

・391年倭軍、渡海して百済・新羅を破り、臣民とする(広開土王碑)。

396年高句麗の広開土王、百済を攻め、その北部を領土とする(広開土王碑)。

399年百済、倭と連合して新羅に侵入。新羅は高句麗に援助を求める(広開土王碑)。履中天皇?

・400年、高句麗王は新羅を助けるために5万の兵を送った。

・402年、百済阿華王は、日本と同盟するべく息子(のちの腆支王)を日本に人質に送る。

・404年、倭の軍は突如帯方郡南部国境を超え、京畿道に侵攻。

・461年、9代百済王蓋鹵王 高句麗・長寿王による圧迫のなか弟・昆支が人質として日本へ渡る。

・462年、息子の武寧王が日本で誕生。

・東城王(在位480~501)姓は余。名は牟大。12代百済王。日本で生活していた昆支の息子。幼少の頃より優秀で雄略天皇にかわいがられた。三斤王の急死により百済は混乱。雄略天皇は護衛の兵士をつけて彼を百済に送り返し、即位させた。

・武寧王(462~523)(在位501~523)姓は余。名は隆。13代百済王。日本で生活していた昆支の息子。日本(島)生まれのため斯麻(しま)とも呼ばれる。日本書紀では「嶋王」と表記。中国南朝・梁の武帝や日本・継体天皇と友好関係を維持し、圧迫してくる高句麗と戦い、また南方にも勢力を広げた。

・512年に4県を倭が百済へ割譲。 

・聖王(在位523~554)姓は余。名は明。14代百済王。聖明王ともいう。武寧王の息子。日本の欽明天皇と同盟。高句麗からの攻撃を新羅と共同で撃退。一時は百済の旧領地・漢江流域を回復。

・532年には南部の金官国が新羅に滅ぼされた。 

・538年百済の聖王は、都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷した。

・威徳王(在位554~598)姓は余。名は昌。15代百済王。聖王の息子。戦死した聖王のあとをうけ即位。王子(恵王)を日本に派遣し同盟を強化した。

・恵王(在位598~599)姓は余。名は季。16代百済王。聖王の息子。554年、聖王が戦死。555年、援軍要請のため日本へ渡る。556年、帰国(562年日本、高句麗へ出兵)。

・562年には洛東江流域の任那諸国を新羅が滅ぼした。 

・584年、蘇我馬子は、鹿深臣(かふかのおみ)と佐伯連(さえきのむらじ)が百済から持ち帰った石仏二体を譲り受け、高句麗の還俗僧・恵便(えべん)を播磨から招いて仏法の師とした。馬子は使節が帰国する船で善信尼たちを受戒のために百済へ留学させた。泗沘城に留学した588年に六法戒を受け、翌589年には大戒を受けた。590年3月、泗沘城での1年半の修行を終えて帰国すると、元の桜井寺に住んだ。

・義慈王(在位641~660)19代百済王。武王の息子。唐や新羅からの侵略が脅威となっていた。462年、唐の侵攻に備えるため非主流派の貴族や王族を追放。追放された貴族や王族は日本に亡命した。

・660年、唐軍が百済に上陸占領。百済人は、新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡。百済王と王族・貴族を含む一部の百済人が倭国に亡命し、一部が朝廷に仕えた。豊璋の弟の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓をもらった。大阪府枚方市の中宮(なかみや)西之町には、国の特別史跡・百済寺跡(くだらじあと)は、渡来系氏族百済王氏の氏寺がある。

・余豊璋 姓は余。名は豊璋。20代百済王。百済王義慈王の子。強力な統一王朝・唐帝国成立により圧迫の強まる国際情勢のなか、631年、人質として日本へ行く。以後30年間日本で生活。その間、唐の圧迫からの武力防衛をめざし高句麗の泉蓋蘇文や日本の中大兄皇子がクーデターを決行。日本にやってきた金春秋(のちの新羅王武烈王)との会談はあったのか?660年、唐の攻撃により百済降伏。義慈王は捕虜となる。亡国の王子となった彼は亡命政府のあるじとなる。662年、天智天皇(中大兄皇子)の支援を受け帰国するべく出撃。斉明天皇も同行するが彼女は九州で死去。海峡を渡り鬼室福信と合流し反撃の準備を進める。しかし鬼室福信との対立があったのか彼を殺してしまう。有力重臣を失った余豊璋は翌年、百済再興を賭け白村江で戦うが完全な敗北。豊璋は高句麗に逃亡。百済は完全消滅した。敗残日本水軍は帰国。百済王族などの生き残りの多くは日本へ亡命し、そのまま日本に同化していった。…東洋歴史年表『百済』より引用

・663年再起を願った百済と倭国の水軍と決戦に及んだ(白村江の戦い)。斉明・天智天皇

・668年高句麗が、唐に侵略される。

・1206年~1634年モンゴル帝国。

 

≪広開土太王に出てくる部族?国?≫ 2014年9月21日現在

・高句麗 ・靺鞨 ・契丹 ・後燕

韓ドラ『広開土太王』の時代 4~5世紀  No.2     ≪参考記事≫

 






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最終更新日  2014年09月26日 19時47分23秒
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