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テーマ:暮らしを楽しむ(387797)
カテゴリ:日本ってなんだ研究
縄文人は原始人じゃないよ!・・・工事中 この頃読んだ2冊の本の内容が、頭の中で渦巻いてる。頭をすっきりさせるために縄文人をまとめておこう。 日本人の脳に、縄文脳の痕跡があって、日本人の情緒を作ってるような気がしてるんだ。 縄文時代というのは、紀元前12000年~紀元前300年ごろまでと考える。長いなぁ…。 日本で一番古い人間の痕跡はいつごろだと思う?宮城県の座散乱木・中峰・馬場壇遺跡で、最も古い地層から14万年前の石器が出ているのが一番古いそうだ。これは旧石器時代かな? ・2万2000年前鹿児島で姶良カルデラの大噴火で、福島まで多量の火山灰が飛ぶ。多くの人が、東国へ移動した。 ・1万2000年前~6000年前 縄文草期。西日本と東日本の2つの土器文化があった。長崎県福井洞穴の隆線紋土器、青森県大平山元・茨城県後野などの神子柴文化系の遺跡からの無紋土器。 ・1万年前 氷河期で大陸と日本列島はつながっていた。石槍猟から、弓矢に変わっていく。 ・9500年ごろ 弓矢を使った狩猟と漁。コチ・ハモ・黒鯛などの内湾の魚と外洋のカツオ・マグロをとって食べていた。舟か筏を使っていた可能性がある。骨製の漁具。(横浜市夏島貝塚) 長野県栃原遺跡では、装身具の貝の中に紀伊半島以南のものがあった。豊かな食生活と生活を支える技術が蓄積されてきた。…山と海の交流。 ・縄文早期前期に隠岐諸島に人が住み本土と交流があった。島で取れる打製石器の材料の黒曜石が、島根・鳥取・兵庫で見つかる。海流を渡る船と技術があった。 ・8500年前 犬を使った猟をしていた。(上黒岩遺跡) ・7000年前 縄文土器用のあかり・大麻などのいろんな太さの縄を作っていた。稲作以前から縄があった。(福井県鳥浜遺跡) ・6500年前 氷河が解け温暖になり、縄文海進で内陸まで海が侵入していた。 ・とちのみ・どんぐりの灰汁抜きの方法を知っていた。ヒガンバナ・里芋の栽培。中国の江南地方から流入。食料の知識と食事法の研究が蓄積されている。大陸との交流があった。 ・保存食…どんぐり・シイ・とちの実・芋。縄文クッキー。鮭の干し魚。知恵と技術を持っていた。すでに貧富の差。土器や服装食事で、特別な人普段の日を使い分けていた。さまざまな装飾品を持っていた。首かざり・腕輪・イヤリング・ヘヤピン・櫛・後期では、ヒスイの勾玉。いれずみ。 ・4500年前 冷涼化により海面の後退が起こり、遠くに行かないと魚が取れなくなった。 ・4000年前 現在と同じ気候になった。 ・伊豆半島から190キロ離れた八丈島で島にはない黒曜石の石器と耳飾りが見つかった。縄文人の航海技術は大陸に到達も可能だった。(倉輪遺跡湯浜遺跡) ・縄文晩期 西日本では、打製石器で取った動物と植物性の食料の採取と半栽培。いいろんな雑穀を焼畑耕作をしていた(突帯紋文化圏)。 東日本では、豊富なサケマスとトチ・クルミ・くりなどの食糧があった。精巧な土器と漆工芸。土偶・勾玉・石棒の技術。再分配システムもあり豊かな社会と文化があった。 …メソポタミア・中国文明が起こる… ・紀元前後 紀元前2000年~1000年ごろの中央アジアから東アジアにアワ・キビ・大麦の農耕が、粛慎・勿吉・靺鞨などの民族に伝わった。竪穴に暮し、麦アワキビを栽培して豚の飼育をして、弓で狩猟。漁労をする。東日本の暮らしと似ているところが多い。…交流があった。 ・紀元前2000年~1000年越人の文化が栄えた。 ・紀元前1000年ごろ 東南アジア雲南からベトナムタイなどに米文化が広がった。 ・紀元前7世紀以前に米作と道具が日本に伝わっている。 ・紀元前5世紀から4世紀 呉越の興亡期。青銅器と鉄器を中心とした文化。呉越の民は船を巧みに操り、潜水漁労をする。断髪をして刺青をする南方系であった。…倭によく似た特徴を持っていた。 …工事中 ・日本語は、アルタイ語(チュルク語・モンゴル語・ツングース語・朝鮮語)に文法が近い。語彙の対応や音韻対応が少ないので同じではない。アルタイ語のもとになる言語と近いと考えられる。 ・つまり、バイカル湖から発する古アジア語の流れ。細石器文化の頃から西日本と東日本は、異なる文化をもって縄文末期まで続いた。いろんな言葉が混じってできたのだろう。 ・西日本では、縄文末期ごろからプレ農耕段階に入り、後期晩期には南方から焼畑を営む文化が入り、南方的言語が日本に入った。 ・長江下流域の農耕文化が、長江河口から、朝鮮半島を経由して日本に入ると、呉越の南方系の言語や、朝鮮半島のアルタイ語系の言語も入ったと考えられる。 ・人の頭骨で考える。頭骨の計測値からは、縄文から小進化をしながら、混血をしてきたことがわかる。もともと低顔(丸顔)の低身長の多い島に、高顔(面長) な人が入ってきた。山口県の土井ヶ浜人の頭骨は、朝鮮半島の金海郡礼安里発掘の人と特徴が似ている。コンピュータ解析するとモンゴル人・アムール沿岸の民族と酷似している。つまり寒冷適応した新モンゴロイド。すでに縄文時代に到達していたがわかる。 ・中国の米を伝えた江南の人は、低身長・低顔だった。(福岡新町遺跡) ・自然人類学者の埴原和郎の計算では、紀元前3C~紀元後7Cの1000年間に、数十万から100万人の渡来人が来たと想定した。7世紀末の縄文人と渡来人の人口比は、1:8.6となった。渡来人のほうがずっと多くなった。 ・渡来人による混血と遺伝子の拡散が起こった。赤血球酵素GPt1遺伝子の頻度で見ると、北海道はナホトカあたりと同じ。本州九州四国は、呉のあたりと同じ。…呉は、長江の船の事故があったとこ ・ATLウィルスキャリアは、大陸ではほとんど見られない。しかし、南の島と日本にいる。特に九州とアイヌに多い。もともと縄文人にはキャリアが多かったが、キャリアを持たない新モンゴロイドの流入と増加によって、本州では薄まった。 ・B型肝炎ウィルス抗原で見ると、南方海洋型の人が住み着い日本に、華中・華北型を持つ人が、朝鮮半島を経由して入ってきた。 ・GM遺伝子の出現頻度。縄文末期から弥生初期に、新モンゴロイド的形態の北東アジアを起源とした新しい遺伝形質が、稲作農耕文化とともに朝鮮半島を経由して日本に入った。江南華南から渡来して、低身長・低顔の人たちの遺伝子が拡散。(佐賀県唐津市菜畑遺跡の縄文水田)・・・工事中 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年06月09日 19時52分21秒
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