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カテゴリ:続きものショートショート
私はアルミシートを破っていつもの錠剤をテーブルの上に並べた。大した薬ではない。 ごく軽いうつ症状を抑えるために飲んでいるものだ。それを飲み始めてから2年ほどが 経っていた。不妊治療を止めて剛史と付き合うようになってから、私は将来に希望を 見出すことができなくなった。私は誰にも必要とされてなどいない。神様は私に何も 与えてくれはしなかった。そんな考えが時に私を取り巻いた。耳の奥で小さな虫がキイ キイと音をたててうごめくような感覚が眠れない長い夜に私を苦しめたこともあった。
今ではそれらを飲むことは、私にとってサプリメントを飲むこととさほど変わりはしない。 ハイでもなくローでもない今の状態を保っているのだから、それらを飲み続けることに もう抵抗を感じることなど全くない。
バナナとトーストとミルクティー。いつもと変わらない朝食を終えて薬を口に放り込んで 水で流し込んだ後、私はあわただしく身支度を整えた。テーブルの上の朝食の横に 「コーヒーメーカーはセットしてあります。あとはボタンを押すだけ」と書いたメモを残して うちを出た。
今月に入って、来月日本語検定試験を受ける生徒たちのための補習授業も始まった。 11月に入って忙しい毎日が続く。疲れていないと言ったら嘘になる。けれど多少の ストレスがあるくらいのほうが、緊張感があって足取りが軽く感じられるのは学生時代 からのことだ。抗うつ剤を飲むような状況になったのは、決して仕事のせいではない。 ただ、私に興味を持たない夫との将来に、何も希望を感じることができなかった日々が ほんの少し長く続いたせいだ。仕事が忙しいくらいのほうがいい。クリニックの先生も そう言っていた。
地下鉄のドアが開くと、私は人をかき分けるように駅に降りて大きく溜息をついた。 車内のどんよりとした湿った空気が身体の中にウイルスのように充満しているような 気がしたからだ。教科書の入った思いバッグを肩にかけなおしながら、私はエスカレーター に向かって歩き出した。土曜日だというのに人が多いのは、私が勤める学校が横浜の 観光地からそう遠くない場所にあるからだ。
今日は午前中の仕事が終わったら圭子に会いに行くつもりだ。授業のレジメを書いて、 あと片付けをしたとしても、3時の面会時間には余裕で間に合うはずだ。今日は何を 話そう。高校時代の思い出話をしようか。日本語学校での出来事を話そうか。それとも 実家の庭では金木犀の香りが楽しめることを話そうか。そんなことを考えながら駅構内 から出ると、駅前のバス停にバスがすでに到着していて、列に並んだ人たちが乗車し 始めているのが目に入り、私はバス停に向かって走り出した。
つづく
*このお話のストーリーはフィクションです。
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