魚がおよぐ日 ~final step
ギャラリーを閉める時間が近づいた時、外の石段に人影が見えた。 ドルチェの佐々木比呂だった。 「まだ、だいじょうぶですか」 「もちろん。来てくれたんですね。ありがとう」 白いワイシャツと黒いパンツ姿は、店で見るいつもの佐々木の服装だった。 「あ、すみません。マスターに頼んで、少しだけ抜け出してきたんです」 部屋の奥から、果歩がにやにやと笑いながら歩いてくる。 「あら、佐々木君、そんな理由をつけなくたって、朝から来て、何時間でも居てくれて よかったのに」 頭に手を置いて困惑した表情を浮かべる佐々木を横目に、果歩が私の耳元に囁いた。 「佐々木君は琉夏に『ほの字』らしいわよ。口下手な彼だから、よろしくね」 なんだか古めかしい言い方が果歩らしくて可笑しかった。 今日はお先に失礼するわ、と言い残して果歩は石段を下りて通りの向こうに消えていった。 佐々木と私は、ゆっくりとギャラリーに展示された写真を見てまわった。 佐々木が一枚の写真の前で足を止めた。 「蓮くんが命を吹き込んでくれた黄色い太陽は、奇蹟とやらを起こしてくれたかい」 私は、佐々木を見上げてにっこりと笑った。 「そうね、黄色い太陽が奇蹟を起こしてくれたとしたら、それは私が横浜に戻ってくると 決めたことだわ」 母たちが帰った後で、来年には母と莉久が横浜の祖母の家に越してくると果歩から聞いた。 それは驚いたことに、年老いた祖母を気遣って莉久が言い出したことだった。春になったら 莉久はこの街をもっと知るようになる。丘の上から見渡した港の風景も、石畳も、煉瓦 の建物も、潮風も、木漏れ日も。私が自分の中にしみ込んでいた横浜の風景を眺め ながら横浜に戻ることを決めたのは、その話を聞く少し前のことだった。初めて5人で 暮らす祖母の家で、私の中にまた別の歴史が刻まれることになる。 「新しい一歩を踏み出すんだね」 「そうなるのかな」 「そうだよ。蓮くんは琉夏さんの中に深く沈んでいって、琉夏さんの一部になる」 「私の一部?」 「そう。これからは、生きてゆくすべての力は思い出と輝きと共に。幸福も充実も、挫折も 後悔も、すべてが心の中に沈殿してかき乱されることもなく、何もなかったように静かに 密かに存在し続けていく。そういう記憶が人を作っていると思うんだ。いつか澄んだ心の 中に一匹の魚を放って、それがなにもなかったように平穏に泳ぎ回るビジョンを思い 浮かべてごらんよ」 「蓮の思い出が私の中で埋もれてしまうってこと?」 「埋もれるっていうよりも、やはり蓄積されて一部になる感じ。それは悪いことじゃない。 一枚の油絵を描く時、深い色合いの下に、思いもよらないような色がその下に塗られて いることを完成した絵を見る人は知らない。つまりは、ひとりの人生を完結させるには 誰も知ることもないような想いが心の奥深くにあるって思うんだ」 ドルチェのカウンターの中で、無言でグラスを磨く佐々木の口から、こんな言葉が出るとは 思ってもみなかった。私は、しげしげと顔を覗いて笑ってしまった。 「ぼくは、琉夏さんがここにいるだけでうれしい。辛かったのは知っている。それでも、 今ぼくの隣で笑っている。それだけで感謝したい気分だ」 「佐々木君・・・」 「なに?」 「キスしよっか」 佐々木は、じっと私をみつめて言った。 「琉夏さんは、マスターが言った通りの人だ」 肩に手を置いて、唇を重ねただけのキスだった。 佐々木は夏の匂いがする。花火の夜、様々な国籍の客が入り混じり大騒ぎをした。 汗やビールや港のにおいが入り混じった夏の匂いが記憶の中から呼び起こされた。 二十六になった今でも、蓮を失ったあの日のことを思い出しては心の中がかき乱されている。 その思いは、時には行く先を見失って、悲しみと混乱はぐるぐると頭の中でスピードを あげてあちこちにぶつかりながら。どうしたら蓮に関するすべての記憶が私の心の奥深くで 静かに眠ってくれるというのだろう。今の私には、その答えは見つけられない。けれど、 蓮が私の一部になるとしたら、なにも悲しむことなどありはしない。ただ、何もなかった ように色んな思いが沈殿して、ゆるやかな時の流れを楽しみながら、澄んだ水で満ちた 心の中を一匹の魚がおよぐ平穏な日を夢見て歳を重ねていきたい。誰に知られること はなくとも、確かに蓮と私の歴史が私の中にあると思いながら。 完