HALF NOTE First Step
あの日、私は雨が降る中、傘をさしたまま紫陽花の写真をとる事に 夢中になっていた。 よく手入れが行き届いているこの遊歩道では、 赤紫と青と両方の紫陽花を楽しむことが出来る。 ここの遊歩道の 紫陽花は毎年大きな花を咲かせる。 もう少し、先に歩けば青い紫陽花 も見ることができるだろう。 今私の目の前に咲く大きな花は、梅雨の終わりに少しずつ勢いを なくして、少しずつ色を失い、そして枯れていく。 けれど再び雨の季節 に大輪を雨に濡らし、活き活きとその姿を道行く人に見せつける。 惜しげなくその姿を、必ず・・・。 * * * 私は横浜にあるインターナショナルスクールで、非常勤の日本語教師 をしている。 といっても、学校はもうすでに6月中旬から夏休みだから、 今日は学校で授業がある訳ではない。 来年、日本で大学を受験する 学生が受ける日本語検定試験の準備で、しなければいけないことが たくさんある。 そのために休みに入った今も、雨の中を学校に通って いる。 いつも早い時間に歩く道が、午前のこんなに遅い時間に歩く のは何だかちょっと新鮮に感じられて、最近ではこの遊歩道を歩く時間 が私のささやかな散歩タイムのようになった。 「きゃ・・・」 「あ、すみません」 青い紫陽花の写真も撮りに行こうと、一歩下がった私は、人にぶつかって しまった。 その拍子に、持っていた携帯が手を離れ雨が降る遊歩道に ぽとりと落ちた。 やばい・・・、急いで手を伸ばした私の手は、ヴァイオリン のケースを背負った男の人の手と重なった。 彼は私の携帯を拾い上げ、 濡れた表面をジーンズに擦りつけ、大丈夫かな、と呟いた。 「すいません・・・。 あの、大丈夫みたい・・・」 その時、彼は自分の時計を見て「あ、いけね、レッスンの時間・・・」と 言って、私に向かって小さく頭を下げて走り出した。 ああ、あの歩道橋の 向こうの音大の生徒だ。 そして、私も彼が走り去って行ったのと同じ方向 に向かって歩き出した。 今日はもうこれくらいにしよう。 紫陽花は明日 だって綺麗に咲いている。 学校に行けばやらなければならないことは たくさんあるのだから。 時計を見るともう5時をまわってる。 今日は、これくらいにしよう。 私は 机の上を片付け、帰り支度を始めた。 ふと、携帯を見る。 今朝、雨の 降る石畳の上に携帯を落としたことをすっかり忘れていた。 机の上に 放り出してあった携帯を取り上げてみる。 うん、大丈夫、全く問題はない ようだ。 私はバッグを肩にかけ、部屋をでた。 雨はまだ降っている。 それでも、外はまだ随分と明るい。 歩道橋の上に差し掛かると、後ろから3,4人の学生が歩いてくる気配を 感じ、私は端に寄って道を譲った。 その時、ヴァイオリンケースが私の 肩に当たった。 「すいません・・・」と言って通り過ぎた声の主が、 突然振り返った。 「あ・・・、今朝の・・・。 あの、大丈夫でしたか? 携帯。」 まわりの男子学生は不思議そうに顔を見合わせている。 彼は言い訳 がましく「今朝、ぶつかって、この人の携帯、雨の中に落としちゃったん だよ・・・」と言っている。 「あ、大丈夫です。 まあ、心配していてくださったの? かえって申し訳 なかったわ。」 彼の友人は顔を合わせて「おおおぉ-」と声に出した。 私が話す言葉は、 職業柄か、どうにも丁寧になり過ぎることがある。 そんな言葉が若い彼ら には、驚きに感じられたのかもしれない。 「やだな。 私の言葉、変ですか?」 「い、いえ、変じゃないです。 でも、俺らの仲間には、あなたみたいな 言葉を使う人は、間違いなくいないっすけど。」 苦笑いする彼の後ろで、一人の学生が彼を突いて言った。 和也、 知り合いかよ。 誘っちゃえよ。 一緒に飲みに行っちゃおうぜ。 「すみません、これからみんなで飲みに行くんです。 男ばっかな もんで、もし良かったら一緒に・・・」 「え、こんなおばさん誘っていいの?」 「え・・・な・・・、おばさんだなんて。 全然、おばさんなんかに 見えないっすよ。」 「いやだな。 そんなにおばさんを連発しないで。」 「あ、すいません・・・ あの、名前・・・」 「内野 圭っていうの。 ・・・そちらがいいなら、お言葉に甘えて ご一緒させていただこうかしら。」 おおー、と言う学生達の声がGOのサインだった。 25歳にもなって、 大学生と一緒に飲みに行くなんて思っても見なかった。