依存症
「ねぇ、会いたいよ。 今すぐ会えないの? もしかして、 本当は、もう私のこと嫌いになったの? この間は、 私のこと好きだって言ってくれたじゃない。 ね、これから 会いに行ってもいい? ちょっとだけ・・・。 ね?」 私は、彼女のこんなせりふを一体何度聞いたことだろう。 夜になると、彼女は違う男に電話をして、自分がどんなに愛しているか、どんなに会いたいかを延々と話し続けている。 受話器を握り締める彼女は三十三才という歳よりかなり若く見える。 華奢な身体と、くりくりと動く大きな瞳は小動物を連想させる。 私が初めて彼女と出会ったのは、六年ほど前のことだ。 心配した母親が、僕のメンタルクリニックに彼女を連れてきたのがきっかけだ。 恋愛依存症。 それが彼女に付けられた病名だ。 初めて会った頃、彼女は小さな建設会社の事務員として働いていた。 実際のところ、彼女の病気が原因で、随分と会社を変えたらしい。 あらゆる年齢の、あらゆる職業の男性を好きになり、驀進だ。 寂しさを好きな男と会うことで埋める、そして、その男性と会えない寂しさを、好きでもない別の男性に会うことで紛らわしているのだから、普通の恋愛関係が保てるはずもない。 とにかく、相手の好みの女性になりきることで、その世界に陶酔し、可能な限りの時間も金も、心も身体も捧げていた。 普通の男が彼女のことを理解できるはずがない。 しかし、私が彼女と結婚し、一緒に暮らし始めてもう四年が経つ。 彼女は仕事を辞め、今は専業主婦として何不自由のない生活をしているのだが、病気が完全に治ったという訳ではない。 今でも時々、こうして私の知らない男に電話をして、自分がどんなに愛しているか、どんなに会いたいかを延々と話し続けている。 そして、彼女が時々相手の好みであろう香水を振りまいて出かけていく姿を見ることもある。 なのに、私がこうして彼女と婚姻関係を続けているには訳がある。 私が彼女の一番の理解者であるという自負があるからだ。 厳格な家庭て育った彼女が、恋愛に依存することでしか紛らわすことができない寂しさや孤独は、自分自身が歩んできた苦難の道程の上にもあった。 諍いが絶えない両親の元で育った僕自身も、何かに依存しなければ生きていけないかもしれない、という不安を感じながら子供時代を過ごしていた。 こんな仕事についたのも、自分自身についてもっと知りたかったからなのかもしれない。 “Adult Children of Disfunctional Family”自分の依存症に名前をつけるとしたら、こう呼ばれる。 だからこそ、彼女と一緒に生きていこうと思ったのだと思う。 いつか、ふたりで本当の家庭を作ってきたいと願っている。 香織が私の前を通りすぎ、パタパタと音をさせて玄関のほうへ向かった。 「おい、香織。 出かけるのか? いつもの、忘れてるぞ。」 彼女は、「あ、そうだ…」と言って、私のほうへ駆け寄り、その細い腕を私の首に絡ませた。 彼女の大きな瞳が私を捉えていないことは知っている。 たぶん、これから会う男のことを考えて、その視線は空を泳いでいる。 それでも、私は、彼女の背中を静かに叩きながら呟いた。 「香織、十二時までには帰って来いよ。 いいか…、心配 して待ってる僕がいることを忘れるなよ。 気をつけて 行ってくるんだぞ…。」 時々頷く彼女の頬が、私の頬に触れた。 これから、二人で家族のやり直しだ。 小さい頃に遡って、僕たちが望んだ家庭を作っていくつもりだ。 たとえ、何年かかっても…。 何十年かかっても…。