2015/03/23(月)16:14
江戸郊外の不思議な墓石石仏
【江戸郊外の不思議な墓石石仏】 2012年12月28日、所長と江戸郊外のとある一帯を巡ってみたのですが、これはその時にとある院の境内にあった墓石石仏です。下の写真は上の写真の「研究所」の下の部分を、原版からトリミングしたものです。この院があるところは、現在は東京都23区内になっています。道路が混んでいなければ、皇居から30分程度で来ることが出来ますし、公共交通機関を利用しても、大手町からそれほど時間はかからないだろうと思います。 下の写真には4名分の戒名が彫られていますが、左側の2名分は「一」で始まっています。また、右から2番目の戒名の「禅定尼」の「尼」が異体字ですし、「禅」はどれも異体字です。不思議なことのように思えますが、江戸からそれほど離れていないところに、転切支丹類族がいたということになります。 こうしたことが非常に不思議に思えていたのですが、こうした墓石石仏が残っているのは事実ですから、江戸の周辺にもキリシタンが広まっていたか、転切支丹類族の武士の主家が改易されて、この一帯に帰農していたとすれば、こうした墓石石仏が残っていても不思議ではありません。保科正之公の生母、お静の方の実家は北条氏に仕えていた武家で、この一帯からそれほど離れていないところに帰農していました。 それだけではありません。あの「絵島生島事件」で有名な絵島の墓石に彫られた文字列からすると、絵島がキリシタンであった可能性が非常に高いことが判ります。但し、現在残っている墓石は、ほとんど文字を読み取ることが出来ませんが、旧高遠町が発刊した『写真集 高遠のあゆみ』に載っている絵島の墓石の写真から文字を読み取ることが出来ます。絵島は江戸城の大奥の中枢にいた女性です。