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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「太子守宗」】 これは、会津のとある村にある浄土真宗本願寺派のお寺に境内に建てられている太子堂に置かれている聖徳太子像です。香炉などと比べていただくと、小さなものではないことをお判り頂けるかと思います。 2004年10月16日に、以前からこのお寺のことが気になっていたので出掛けました。この時に、ご住職がお寺にいらっしゃって、太子堂の扉を開けて中を見せて下さいました。勿論この写真も許可を頂戴して撮影したのですが、携帯用の小さなデジカメだったので、厨子に貼られた金箔の反射で、きれいに撮ることが出来ませんでした。このお寺は、明暦年間までは「太子守宗」のお寺でした。しかし、その後、真宗高田派に転宗し、『新編会津風土記』では京都の東本願寺の属していることになっています。そして、現在は浄土真宗本願寺派のお寺になっています。 この明暦年間に転宗したときには、この一帯にあった「太子守宗」のお寺の多くは真宗高田派に転宗していますが、中には浄土宗に転宗したお寺もあります。明暦年間ですから、会津藩主は保科正之公であった時代です。おそらく、この一帯で宗門人別制度が施行された時に、「太子守宗」と命名された「寺」があったのであろうと思われます。この「太子守宗」に関しては、まったく別のところにある「お寺」が発覚して、大阪の四天王寺の末山だと主張したので、会津藩が四天王寺へ問い合わせたところ、そのような末山はないという返書が来たと『会津藩家世実紀』に記されています。そして、そのお寺はお寺の申し出によって、曹洞宗に転宗し、近隣の「太子守宗」のお寺と合わせて、四ヶ寺が曹洞宗に転宗しています。 このことは、『新編会津風土記』にも記されているのですが、『会津藩家世実紀』と『新編会津風土記』の間に大きな相異はありませんから、『新編会津風土記』の編纂者は会津藩に残っていた記録文書を資料として用いたのであろうと考えられます。この「太子守宗」に関しては、史料がほとんどないので、かなり悩んでいたのですが、あるところであるモノに出会って、間違いなくキリシタンであると考えるようになりました。このモノに関しては、どのようなモノであるかだけでなく、何処にあるかも、拙著にも、このブログにも記していません。あのモノの写真を撮らせて下さった方の著作を頂戴して、読ませていただき、公開しないことにしました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.09.02 07:35:11
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