会津キリシタン研究所

2015/03/23(月)20:48

伊那谷のとある村の道路脇にあった石碑列

キリシタン(16134)

     【伊那谷のとある村の道路脇にあった石碑列】 これは伊那谷のとある村の道路脇に並べられていた石碑です。ここには「甲子」碑はありませんでした。ただ、この路は村の中を通っている旧道で、バイパスを車で走ると見ることは出来ません。会津でもそうですが、村々の中を通っていた道路以外に、伊那谷でもバイパスが整備されているところがありますから、こうした石碑を探す時には、村の中を走らなければなりません。 ここは伊那谷でもかなり北の方なのですが、ここよりももっと北の方でも、「庚申」碑や「甲子」碑あるいは「二十三夜」と彫られた石碑が残っているところがあります。伊那谷へキリシタンの研究のためにお出掛けになられるのでしたら、国土地理院の地形図とグーグルマップを併用されるのがいいと思います。そして、ネット上に、お寺の一覧が載っているサイトがありますから、お寺の宗旨を調べるのに便利です。 ここも旧高遠藩領内です。つまり、保科正之公が高遠藩主であられた時に高遠藩領だったところです。そして、ここからそれほど離れていないところにお寺があるのですが、この村もそのお寺の檀家になっているのであろうと思われますが、曹洞宗のお寺なのですが、墓地に観音菩薩石仏がいくつもありました。 こうした様々な要素を一つずつ検証していくと、旧高遠藩領内にもかなりの数のキリシタンの痕跡が残っていることに気が付かされれます。そして、京極高知が飯田の領主だった時代から、江戸時代のかなり遅くまで、伊那谷にもキリシタンの信仰と習慣が残っていたことが見えてきます。「保科家は神道だった」とおっしゃる方もいるかと思いますが、保科家が神道になったのは、保科正之公が会津藩主になられてからですし、実質的には保科正之公が亡くなられてからです。 

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