2015/06/10(水)10:49
会津の「子安観音」像
【会津の「子安観音」像】 この2体の観音像は、それぞれ別の曹洞宗のお寺の本堂に祀られています。村の方にお願いしたら、中へ入れて下さいました。そして、どちらの村に関しても気になることがあったのですが、下の如意輪観音像が祀られているお寺の山号は、非常に気になります。『新編会津風土記』をデータベース化している時に気が付きました。勿論漢字で表記されているのですが、並を意味しているのか判りませんが、その山号を音読みしたら、どなたでもご存じの人物の名前になります。 会津には「毘廬山」という山号のお寺がありますが、そのお寺がある一帯にも、はっきりとしたキリシタンの痕跡が残っています。「毘廬山」は「ビルザン」と読みますが、ローマ字で表記して、母音を一つ入れ替えるとキリシタンであれば誰もが知っていたであろうポルトガル語になります。そして、「毘盧遮那仏」の「毘盧」であろうと思われますが、「毘盧遮那仏」は「盧遮那仏」に「毘」が付けられた名詞です。何故「盧」と「遮」の間で切ったのでしょうか。 会津の史料を丹念に検証すると、様々なことに気が付かされます。そして、こうした史料に残っていることを、その一帯に残っているモノから考えると、キリシタンがはっきりと見えてきますが、会津藩はこうしたことを問題にしていません。それは『会津藩家世実紀』にそうしたことが記されていないことから判ります。 キリシタンは九州だけにいたわけではありません。江戸市中にもいたことは、山手線の内側にあるお寺に、転切支丹類族墓石が残っていることからも判りますし、江戸城の外堀の内側にもキリシタンがいたことが、とあるお寺の残っている墓石からも判ります。間違いなく、会津藩士の墓石です。