会津のとある村のお寺の参道入口に集められている首無し地蔵
【会津のとある村のお寺の参道入口に集められている首無し地蔵】 前述までのものが残っている村から峠に向かって少し行ったところにある村に同じ真言宗のお寺があるのですが、そのお寺に歩いて上がっていく参道の入口のところにあった祠を撮った写真です。地蔵菩薩石像が中央に祀られているのですが、後ろに多数の首無し地蔵が並べられています。それも、それほど大きさが異なるものではなかったので、六地蔵の首が落とされたのかと思ったのですが、6体以上の首無し地蔵が並べられていました。 この村も江戸時代には会津藩領だった村です。『新編会津風土記』に名前が載っています。それだけではありません。『文禄三年蒲生家高目録』にも名前が載っています。ですから、少なくとも文禄三年(1594)には村として成立していた村です。そして、この翌年に蒲生氏郷が亡くなっていますが、それ以降も村が続いていたのであろうと考えられます。 会津では、蒲生氏郷の時代だけにキリシタンがいたように言われますが、『文禄三年蒲生家高目録』『寛文風土記』『会津鑑』『新編会津風土記』を一つのデータベースにすると、様々なことが見えてきますし、村々にある姓を考えると、非常に興味深いことも見えてきます。但し、この時に非常に大事なことがあります。それは、『新編会津風土記』にある寺社の開基は、『新編会津風土記』の編纂者が認めたものではないということです。これは、『新編会津風土記』自身の凡例に記されていますから、是非ご一読下さい。 この写真に写っている比較的小さい首無し地蔵ですが、その断面の風雨か程度からすると、明治初期に破壊されたものであろうと考えられます。また、このお寺の墓地を歩いた限りでは、かつては墓地に祀られていたものである可能性が高いと小生は考えています。非常に古い型式の墓が墓地に残っています。