ニュースな人(8) 異国の凶弾に倒れた医師・中村哲さん(前)
久々に「ニュースな人」(話題の人)を紹介します。 8回目の今回は、アフガニスタンで医者として病気の治療にあたるとともに、「きれいな水」を求め、用水建設工事の先頭に立ちながら、2019年12月4日、73歳で凶弾に隊れた、中村哲(なかむら・てつ)先生です。 中村哲先生は、太平洋戦争が終わった翌年、1946(昭和21)年9月15日に、日本の福岡県福岡市に生まれました。 当時の福岡市は、大空襲後の廃墟で、お父さんの中村勉さんの親族は、昭和20年の福岡大空襲でほぼ全滅でした。一方、母方の実家「玉井家」は、石炭産業の盛んだった北九州市で、給水会社や沈没船の引き揚げなどの港湾関係の仕事と関係の労働力を一手に握り、一大勢力「玉井組」をもっていました。 中村哲さんは、2歳で玉井家がある福岡県北九州市若松区に引っ越すと. 6歳から大学卒業までは、福岡県古賀市で暮らします。 中村哲さんの母方の祖父の玉井金五郎さんは、映画や小説の主人公にもなった伝説上の人物で、「弱い者人たちの味方をしなさい」との玉井家での教えは、中村哲さんの生き方に強い影響を与えていると思われます。 これらの映画は、ほぼ実名で「花と龍」シリーズとして、芥川賞作家の火野葦平さん(1906年~1960年)の小説を原作としていて。昭和20年代から30年代には、大ヒットしたそうで、今もレンタルビデオの棚に、並んでいます。 実は火野葦平さんは、本名は玉井勝則さんで、中村哲先生の母方の伯父さんにあたります。 中村哲先生は、福岡県立福岡高等学校から九州大学医学部に進み、1973年に九州大学医学部を卒業すると、国内病院の勤務を経て、1984年に、「日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)」から派遣されて、パキスタンのペシャワールで,主にハンセン病の治療などの医療活動に従事します。 九州大学医学部出身のエリート・ドクターが、「非常勤で治安の悪い国」で勤務するのは、「子利口者ばかりが増えてもおもしろくない、バカもいないと気が落ち着かない。」と、中村先生が話しているように、非常に厳しい条件でした。 1983年、「ペルシャワール会」という基金団体で資金力を、「ペルシャワール・ミッション病院」で医療人材を確保し、1984年に家族を連れ、現地に赴任しました。 以後、2019年に凶弾に倒れるまで、30年以上もパキスタンやアフガニスタンを舞台に、医療活動や「きれいな水」を住民に確保するための用水路建設の活動を、中村先生が中心になって行いました。 中村先生は昆虫と登山が好きで、もともとはパキスタンやアフガニスタンのそれらの資源に惹かれて引き受けたのですが、祖父の玉井金五郎さんの血が正義の行動を後押ししたのかも知れません。 何より、中村先生自身が、困難な水路の建設中、玉井金五郎さんの写真を部屋に飾って、がんばっていたと伝えられています。 中村哲先生は、診察や治療などの医療活動で約60万人の命を救ったといわれ、クナール川からガンベリー砂漠へ総延長25kmを超える用水路を作り、約10万人の農民の暮らしの基盤を作りあげました。 へき地医療だけでなく、用水路の確保に尽力した医者は、中村先生しかいませんでした。 中村先生は土木工事の成功のため、「苦手なものも一生懸命努力すればなんとかなる。」と、日本の堰の構造を研究したそうです。<日本の代表的な堰 徳島県の第十堰(吉野川)> 5月3日は「憲法記念日」ですが、第一線で活躍した中村先生は、憲法についてこうおっしゃています。「武器など絶対に使用しないで平和を具現化する。それが具体的な形で存在しているのが、日本という国の平和憲法9条ですよ。 9条があるから、海外では戦後、絶対に銃を撃たなかった日本。それが日本の強みなんですよ。アフガニスタンにいると、「軍事力があればわが身を守れる」は、迷信だとわかります。 中村先生を襲った銃弾は、誰のものか、いまだにわかりませんが、中村先生は、現地の人、数人と銃弾に倒れましたが、犯人は中村先生の活動を知って狙ったのではないと思います。 もし、中村先生が、日本人で、地元の人のために貢献している医者であり、用水工事の責任者だとわかっていたら、銃撃されなかったのではないかと思うと残念です。 北九州歴史散歩(豊前編) 若松・八幡東・八幡西・戸畑区の50エリア [ 特定非営利活動法人 北九州市の文化財を守る会 ]【楽天1位】25万箱突破 無着色辛子明太子 1kg 小切れ 送料無料 訳あり わけあり 食品 切れ子 切子 めんたいこ お取り寄せグルメ 博多 福岡 お土産 お返し ギフト 海鮮 魚介類 丼 贅沢 業務用