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昨日は、14:46に黙祷。
訳分からずおちゃらけていた、さーちゃんを本気で睨みつけてしまいましたが、分からないか。。。 もしくは、わざとか?! 母が亡くなったときの心情を振り返ると、何のお悔やみの言葉も励ましの言葉も見つかりません。 1周忌の法要は、傷口に塩塗られたように痛かった。 でも、ふと心が動いた時に気づいたことは大事にしてほしいな、と思いました。 地震が起こったとき、携帯の緊急地震速報にも気づかず、携帯をチェックしたのは、外に出て慎さんが帰宅してしばらくしてからでした。 でも、もうお友達や親戚から、心配のメールが入っていて。 もういわきからはお引っ越ししたお友達も、以前の震災を経験しているから、ひどさが分かるんだと思いました。 今回のブログでも、普段は年賀状のご挨拶ぐらいでご無沙汰してしまっていた方からもお見舞いコメントいただきました。 本当にありがたい。 去年の続き。 リビングに雑魚寝した時も、テレビも電気もストーブも消せず、揺れるたびに目を覚まし、その度に子供たちに大丈夫だよ、と言い聞かせ、でもほとんど眠れなかった朝。 一日中、テレビとネットで情報収集。 水がないのが、困りました。 昨日あった、NCのお友達が来たり、ECCの生徒さんの親御さんが連絡入れに寄ってくれたり。 携帯も所々通じにくい地域ができていました。 ECCも3月11日、12日は休講の連絡を入れ、それ以降のレッスンは次週だったので、様子を見てからの判断としました。 基本的に、学校対応にならうので、学校の様子を確認してからの連絡としました。 でも、その対応が分かるより先に、12日朝から放射能漏れ。 原発周辺の人たちが避難開始。 住んでいるところの原発からの距離、今まで全然気にしていませんでした。 約40km。 近すぎる。 すぐではないだろうけれど、原発を冷やす手だてがなく漏れているんだから、ここも汚染区域に入るんだろうな、とチェルノブイリやヒロシマを思い出していました。 午後から、すぐ積み込めるように衣類や雑貨等、軽く整理。 炊いたご飯をおにぎりにしたりパンを詰め込んだり。 夕方、最初に噴煙を上げる1号機の映像だけが先に届き、状況は確認し次第伝えるとの報道。 自分でも、顔色が変わるのが分かるくらい、すうっと血の気が引き、頭の中の黄色信号は赤に変わりました。 要は、状況が分からないくらいひどいということ。 もしくは、伝え方を間違えるとパニックになるから、規制がしかれたのだと思いました。 何も言えずに、荷物の準備。 これ以上ここにいて、正気の状態で災害を免れるのは、あたしには耐えられない、と思いました。 その前に慎さんが実家と連絡を取ってくれて、実家はインフラが生きていたので、大丈夫とのこと。 でも、原発から約100km。 まだ近いと心配でした。 そのときは、原子力災害からの避難の知識も何もなかったので、とりあえずマスクをしてすぐ遠くに離れるのが一番と思っていました。 なので、東京方面のしんせきを目指した方がいいのかと。。。 でも、さらに慎さんが調べてくれて、風下はだめだと。 実家は、偏西風の影響がてきめんな地域なので、たしかに、距離は近いけれど、こっちか、と心配だったけれど実家の方へ。 20時くらいに出発。 首都圏にいる親戚は、関西方面に避難するところでした。 やっぱり、あたしたちに、逃げて正解と言ってくれました。 なので、出発前に、なんで、避難する様子が周りにないのだろう?と不思議に思いました。 ご近所にご挨拶したときも、子供のいるウチには、一緒に避難しよう、と言いたかった。 けれど、何の知識もないあたしが言ったところで、政府は心配ない、という会見、不安をあおるだけだと思い、「断水しているし、原発も心配なので。。。」と言うしかありませんでした。 国道49号も空いていて、やっぱり不思議。 渋滞しているかもと思っていたのに。 たまに、たくさんの荷物を積んで、スピード出している車もありました。 もしかしたら、あたしたち以上にいろいろ知っている人たちの車両だったかもしれません。 あたしも、ランドセルを積み込みました。 ななちゃんの、新しく買ってもらったランドセルも、いわきでは背負うことはないかもしれないと思いました。 車に乗る前に、いわきの空と自宅を見上げました。 もう、少し放射性物質が降っているのかもと恐ろしげに見上げました。 地震直後は、白鳥が鋭く鳴き交わしながら上空に編隊を作って飛び回っていました。 今は、静かなのが恐ろしい、と感じていました。 ところどころ段差があり、6国も途中、土砂崩れで通行止め。 しかし、もう復旧作業が行われていて迂回路の指示もありました。 途中ところどころ渋滞していたので、被曝を避けるのは間に合わないかも、と生きた心地もしませんでした。 さらに緊急地震速報が何度か鳴り、車も揺れていました。 二次災害も心配だったけど、そのときのあたしには、それよりも被曝の恐怖があったので、早く距離を稼ぎたい、とそれだけでした。 本宮のコンビニで休憩。 子供たちは、念のため、マスクをして、トイレ以外は車外におろしませんでした。 おにぎりやサンドイッチなどの食料品の棚は空っぽだったけど、子供たちが大好きなグミやラムネのおやつはまだけっこうあったので、買い込んで、夜だけど、あげたら喜んで食べていました。 ちょっとでも、気持ちがほぐれて落ち着いたのをみて、あたしもちょっと安心。 峠道も、両脇は凍結していて、ノーマルタイヤの我が家の車が通るのはギリギリでした。 実家では、心配してくれて、途中で宿泊してから来たら、とも言われたのですが、早く離れたくて、行けるなら行ってしまいたいと、慎さんに心配を聞いてもらって、6時間近くかけて実家に到着。 今思うと、途中宿泊するとすれば福島市だったので、12、13日に居たら、心配を増やしたように思います。 翌日も、心配のメールや電話いただきました。 軽く神経がのびきったようなショック状態で、なかなかお返事ができず、かえって心苦しかったです。 いわきの状況を見聞きするにつけ、なんで、避難勧告がでないのか、不思議でたまりませんでした。 実家にいても、心配は去らず、携帯を握りしめて毎晩寝たような寝てないような心配な日々が始まりました。 15日には、原発は最悪な状態に。 あたしも、頭痛耳鳴りで、子供たちの前でも心配そうな表情になり、本当に実家にお世話になって助かりました。 18日は、ななちゃんの誕生日。 この子が健康な状態で迎えられるのは、もしかしたら今回で最後になるかも可能性もあると内心思っていました。 ななちゃんは、実家に避難した翌朝13日に、鼻血を出しています。 鼻をほじったらしいのですが、それだけが理由なのか?とても心配になりました。 でも、せっかくの誕生日は、笑顔でいられるように。 実家も物資が届かなくなっていたけれど、お店の在庫にあった、サーティワンのアイスクリームケーキとビザを作って、同じお誕生日の叔母ちゃんとお祝い。 幼稚園最後のお誕生会は、ナシとなりましたが、叔母ちゃんと合同でできたのは、本当に良かったです。 結局、学校も幼稚園もそのまま春休みとなりました。 で、またぼちぼち再開しだした去年のブログの様子のように、現在に至ります。 こうやって書いてみると、あたしの対応はみんなギリギリだったな、でもなんとか間に合っているな、と思います。 だから、これからも、いろいろ気をつけて、いわきに住んでいくと思います。 教訓めいたことも無いけれど、そのときそのときで、最善のことをしていける、そして、一度きりの人生だから楽しく!過ごしていきたいな。 そして、ここでは、それが可能だと思うのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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