2009/01/21(水)00:53
説教要約 496
「神の悔いと人の悔い」
甲斐慎一郎
サムエル記、第一、15章
「わたし(神)はサウルを王に任じたことを悔いる」(11節)。
「この方(神)は人間ではないので、悔いることがない」(29
節)。
聖書には、だれにでも分かる明白な真理が述べられていますが、
ときどき理解に苦しむ矛盾した言葉が記されています。冒頭に掲げ
た言葉は、その中の一つです。
「人の悔い」に関しては、理解することができますが、「神の悔
い」に関しては、どのように考えればよいのでしょうか。
それで「神の悔い」と「人の悔い」について、また両者の関係に
ついて聖書から学んでみましょう。
一、神の悔いについて
「神の悔い」に関して聖書の言葉は、「悔いる」(肯定形)と
「悔いることがない」(否定形)という互いに矛盾した二つのこと
を教えています。
新改訳聖書においては、「悔いる」という肯定形の場合は、ほと
んど「思い直す」(エレミヤ18章8、10節、ヨエル2章13、14節、
アモス7章3、6節、ヨナ3章9、10節他)と訳されているのに対
して、「悔いることがない」という否定形の場合は、そのまま訳さ
れています(民数記23章19節)。
このようなことから「神の悔い」は、
◇「悔いる」という肯定形の場合は「思い直す」という意味です。
◇「悔いることがない」という否定形の場合は、「変わることが
ない」(マラキ3章6節)という意味です。
二、人の悔いについて
「人の悔い」に関して聖書の言葉は、「後悔」(マタイ27章3
節)と「悔い改め」(マタイ3章2節)を教えています。両者の違
いを分かりやすく述べるなら、次のようになるでしょう。
◇「後悔」が罪の結果を悲しむことであるのに対して、「悔い改
め」は、罪そのものを悲しむことです。
◇「後悔」が後ろを振り向いてくよくよすることであるのに対し
て、「悔い改め」は、前向きに神と真理の方へ転回することです。
◇「後悔」が必ずしも罪から離れるとは限らず、また神とか信仰
に関係がないのに対して、「悔い改め」は、きっぱりと罪から離れ
て、ただ神にのみ着くことです。
罪を犯したダビデ王とペテロは、真実な悔い改めをして救われま
したが、サウル王とイスカリオテ・ユダは、罪を犯して後悔してい
ますが、悔い改めをしなかったので、滅ぼされたのです。
三、神の悔いと人の悔いの関係について
神が「思い直す」方であるとともに、「変わることがない」方で
あるという矛盾は、どのように説明することができるでしょうか。
このことを分かりやすく述べるために「(聖霊の)風のたとえ」を
考えてみましょう。
ここに神に向かって強い風が吹いている場合、神に顔を向けて神
に近づく人には、その風は順風になります(聖霊に導かれます)が、
神に背を向けて神から遠ざかる人には、その風は逆風になります
(聖霊に逆らいます)。
神に向かって常に一定方向の風が吹いているように、神は少しも
「変わることがない」方です。しかし私たちが向きを変えるなら、
その風向きが変わるように(しかし実際は変わっていませんが)、
私たちの目には、神が「思い直す」方であるかのように見えるので
す。
「もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、
わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。……もし、そ
れがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行うなら、わ
たしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す」と神は仰せ
られるのです(エレミヤ18章8、10節)。