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「神の摂理と運命」 2020年7月5日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒ 東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2015年7月29日放映「被造物が証明している神の存在」 「神の摂理と運命」 甲斐愼一郎 創世記22章8、14節 「神の摂理」と「運命」について学んでみたいと思います。 一、神の摂理と運命の違い 国語の辞書には、「摂理とは、キリスト教で、最終的に人を善に 導く神の意志」、「運命とは、そうなることに決まっている、物事 の成り行きや人間の身の上。超越的な力によって決定されており、 人間の力では、いかんともすることができないこと」と定義され、 運命の類似語である「宿命とは、人それぞれの身の上に、生まれつ き定まっていて、変更が許されないと考えられている、幸・不幸な どの巡り合わせ」と記されています。 二、運命の悲惨さ 「古代民族の諸宗教は、自然や世界の過程の中に、ただ盲目的な 『運命』しか見なかったのに対して、キリスト教は、そこに自由な 聖なる意志に基づく神の『摂理』を信じました。それは古代宗教史 に全く新しいものをもたらしたのです」(キリスト教大辞典)。 「神を失った世界では、醜く悲惨で不合理な人生が、そのままの 素顔をあらわにする。しかもその不幸な生涯を終えた人間は、死と ともに永遠の闇の世界に消えて行く。このように人生は非合理に満 ちたものであるがゆえに、それは『運命』なのである。運命とは、 人為を越えた非合理の別名である。それは合理性を本質とする『摂 理』の反対物にほかならない。したがって神を失った時、人生はそ のまま運命となる」(ある宗教学者)。 三、神の摂理の幸い 「摂理」という言葉の語源は「アドナイ・イルエ(主が備えてく ださる)」(14節)であると言われ、その意味は、「神の予知によ る人間への配慮」です。 アブラハムが神よりイサクをささげよという大きな試練を受けた のは、最愛の子イサクを神にささげるかどうかによって神に対する 真実な愛があるかないかを試されるためです(12節)。真の宗教の 本質は、どれだけ神の祝福や恵みを受けるかではなく、どれだけ神 を真実に愛するかということです。 ですから、この世において苦難や不幸や災いから逃れるためだけ に神を信じるなら、それは御利益信仰以外の何物でもなく、人は、 ただ自分の利益のために神を利用していることになります。その結 果、真の宗教の本質である神への真実な愛などあり得ず、ただ罪深 い、貪欲な人間が生まれるだけであり、宗教は、その存在価値を失 ってしまいます。 アブラハムは、具体的な一つ一つのことについては、先に何が起 きるのか、その時になるまではわからなくても、神は良いことはも ちろんのこと、現在、目前にある苦難や不幸や災いなどの悪いこと をも用いて、予め私たちのために最善のものを備えてくださると信 じていました(8節)。 「摂理には『予見・予知』と『配慮・世話』の両方の意味があり ます。……神が世界のために、人間のために、教会のために、その 知恵と聖なる意志によって、これら被造物の存在と持続のために必 要なすべてのものをあらかじめ見、かつ知り、あらかじめ備え、配 慮してくださいます。そのようにして被造物に対する神の意図が成 就し,神の栄光が輝き出るためです」(キリスト教大辞典)。 ヨセフは、兄たちに「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神 はそれを、良いことのための計らいとなさいました」と話していま すが(創世記50章20節)、これこそ「神の摂理」にほかなりませ ん。 「神の支配する世界では、神の摂理が行われ、すべてが神の計画 に基づいて合理的に構成されている。たとえ善良な人間が悲惨な生 涯を終えるようなことがあったとしても、それは神の試練による救 いであるかもしれない。たとえまた愛する者を死で失ったとしても、 神の準備した天国で再びめぐり会うことも可能であろう。神の支配 する世界では一つの不合理もあり得ないのである」(ある宗教学者)。 私たちは、「神の摂理」と「運命」のどちらを信じるでしょうか。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
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Last updated
2020.07.04 20:17:15
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