2020/07/11(土)18:45
説教要約 1209
「過程の霊的な教え」 2020年7月12日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年7月13日放映「根拠に基づいて神と福音を信じる」「過程の霊的な教え」 甲斐愼一郎 マタイの福音書、6章25~34節 「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。……きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」(28、30節)。 冒頭の聖句は、「からだのことで、何を着ようかと心配し」ている人に対して、主イエス・キリストが語られたことばです(25節)。 ある人々は、結果や結実また結末や結論というものだけを重要視して、そればかり追い求めていますが、もっと大切なものがあることを忘れてはなりません。それは結果や結実また結末や結論に至るまでの過程です。なぜなら良い結果というのは、それにふさわしい原因や過程というものが必ずあるからです。 ここで主イエスは、「野のゆりがどうして育つのか」という過程をよく見、また考えるように言われていることに心を留めなければなりません。「過程」は、私たちに何を教えているのでしょうか。 一、過程の観察と熟慮――神を知るため 野のゆりは、どうして育つのでしょうか。その育つ過程を私たちがよく観察し、また熟考するなら、人間の理解を越えた神の不思議なわざに驚嘆することでしょう。動物の成長であれ、植物の生長であれ、生物が育つ過程というものは、人知をはるかに越えた神秘的なものであり、それは私たちに創造主である神の知恵と偉大さを教えるものです。 しかしこの神の知恵と偉大さは、生物が育つ過程のみならず、私たちキリスト者が信仰に成長する過程においても同様に見ることができます。聖書は、神が私たち人間をどのようにお取り扱い、またどのように訓練して育てられるのかを記した書物です。私たちは、聖書に記されている人物が、どのようにして神の訓練を受け、育てられていったのかという過程を学ぶ時、神の計り知れない愛と知恵を教えられるのです。 二、過程の観察と熟慮――自分を知るため 野のゆりは、どうして育つのでしょうか。その育つ過程を私たちがよく観察し、また熟考するなら、人間の無知と無力さに恥じ入ることでしょう。動物の成長であれ、植物の生長であれ、生物が育つ過程というものは、人知も人力も及ばないものです。 そしてこの私たちの無知と無力さは、生物が育つ過程のみならず、様々な物事や出来事、また複雑な社会や家庭や個人の成り立ちを知る時にも痛感するものです。 私たちは、様々な物事や出来事、また色々な社会や家庭や個人に関して、その舞台裏や現在に至るまでの過程というものを知れば知るほど、いかに自分が無知であり、そのために知ったか振りをして冷たくさばいていたのか、その高慢と怠慢、また愛の無さと知恵の無さをいやというほど教えられるのです。 三、過程の観察と熟慮――人を知るため 野のゆりは、どうして育つのでしょうか。その育つ過程には、今まで述べた神的な面や自然的な面とともに、人間的な面や人為的な面があるでしょう。野のゆりの場合は、ともかくとして、ほかの草木の場合、刈り込みをしたり、良い肥料を与えたりすることによって、より大きく美しく育てることができるのです。 このことは、すべての人の姿にも当てはまることです。私たちは、現在の姿や結果として表れている表面の姿を見て、人を判断しやすいことですが、その人をほんとうに理解するためには、現在に至るまでの自然的な過程と人為的な過程を知らなければなりません。すなわちその人は、先天的にどのような性質なのか、また後天的にどのような環境に育てられて何をして来たのかという過程を知る時にのみ、その人を正しく理解することができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」