説教要約 167
「二つの生き方」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、4章13~17節 私たちは、年末や年始を迎えると、過去を振り返り、未来のことを考えます。 「過去のない人は、動物に近い。そうして未来のない人は、まさしく動物である」と言った人がいます。人間にとって未来は大切であり、いわゆる「その日暮らしの生活」は決して良いものではありません。「明日に向かって生きる」ところに人間の尊さがあるのではないでしょうか。 しかしこの場合、聖書は、次のような二つの生き方があることを教えています。 一、自分を中心とした高慢な生き方 ヤコブは、「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」(13節)と言う人たちに向かって「あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです」と述べています(16節)。これはどうしてなのでしょうか。 「高ぶり」という言葉は、原語において、もともと「浮浪者」を指す語で、それが転じて「かたり」や「ぺてん師」また「大言壮語する者」という意味になりました。ですから高ぶりは、実際以上に誇大に吹聴することであり、その根は、ありのままの現実の姿や状態を素直に認めない、かたくなな心にあります。 人間というものは、次の瞬間に何が起きるのか全く分からないほど無知な者であり、またどんなに力んでも一瞬でも生命を延ばすことができないほど無力な者です(14節)。 未来のことに関して、このような厳粛な事実を直視せず、また生殺与奪の権を握っておられる神(申命記32章39節)を認めずに、あたかも自分の思い通りに何でもできるかのように振る舞うことは、不遜な態度でなくて何でしょうか。同様に自らの罪深さも、その罪からの救い主の必要性も認めないことは、神の前において高慢であることを聖書は教えています。 二、神を中心とした謙虚な生き方 これに対して、ありのままの現実の姿を直視し、神を恐れて歩む謙虚な生き方というものがあります。 1.「主のみこころなら……生きていて」 これは、神のみこころと私たちの生命の関係を教えています。人間は自分で生きているのではなく、神によって生かされているものです。ですから私たちは、自分の思い通りに生きることをやめ、その生命を神のみこころにゆだねるなら、神は私たちの生命を保証してくださるのです(マタイ6章25、26節)。 2.「主のみこころなら……このことを、または、あのことをしよう」 これは、神のみこころと私たちの生活の関係を教えています。人間は自分の計画や野心を成し遂げるために生きているのではなく、神のみこころを行うために生かされているものです。ですから私たちは、自分の計画や野心を捨て、神のみこころを求めていくなら、神は「みこころのままに」私たちの「うちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2章13節)。 3.「主のみこころなら……生きていて、このことを、または、あのことをしよう」 これは、神のみこころと私たちの生涯の関係を教えています。私たちは、その生命を神にゆだねるとともに、神のみこころを求めて、それにふさわしい生活をしていくなら、その生涯は、神の遠大なご計画によって導かれ、「生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられる」のです(ピリピ1章20節)。 この「生命」と「生活」と「生涯」は、英語においてはみな同じ言葉(Life ライフ)であることは誠に興味深いものです。「生命」は、「生活」によって維持され、その総計が「生涯」ですから、この3つは決して切り離して考えることはできません。 私たちの「生命」と「生活」と「生涯」は、神に対してどうでしょうか。