説教要約 867
「神の謙遜と人の謙遜」 2013年12月24日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年9月23日放映「三つの声」 「神の謙遜と人の謙遜」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、2章1~11節 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(3節)。 「キリストは......人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(6~8節)。 この前半の3節には人の謙遜について、後半の6~8節にはキリストの謙卑、すなわち神の謙遜について記されています。 一、人の謙遜について 人の謙遜について聖書は次のような三段階の謙遜を教えています。 第一段階は、身を低くする謙遜です。とかく人の世は、「出る杭は打たれる」ところです。それで人々に受け入れられるためには、「能ある鷹は爪を隠す」という謙遜なふるまいが必要になってきます。これは、自らの偉大さを自覚している謙遜です。 第二段階は、心の謙遜です。これは、「自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であること」を認め(黙示録三章17節)、神の前に無一物で、何の良い物も持ち合わせていないことを意識することです。これは、自らの無力さを自覚している謙遜です。 第三段階は、霊の謙遜です。これは神の前に返済不能な罪という負債を背負った債務者であることを認め(マタイ18章24、25節)、救い主の必要を意識することです。これは、自らの罪深さを自覚している謙遜で、「心(原語は霊)の貧しい者」です(同5章3節)。 二、神の謙遜について 神の謙遜について聖書は次のような三段階の謙遜を教えています。 第一段階は、人となられた謙遜です。キリストは、「神の御姿である方なのに......人間と同じようになられました」(6、7節)とは、何と驚くべきことでしょうか。 第二段階は、仕える者となられた謙遜です。さらに驚くべきことは、キリストは、人に「仕えられるためではなく」(マルコ10章45節)、かえって「ご自分を無にして、仕える者の姿をと」られたことです(7節)。 第三段階は、罪の負債者となられた謙遜です。しかし最も驚くべきことは、罪の奴隷となっている私たちを救うために、「十字架の死にまでも従われ」(8節)、罪という負債を肩代わりする債務者となられたことです。 三、救いの道について これらのことを分かりやすくまとめるなら、上の図のようになります。この「V」の図において両者が接しているのは最下点のみです。キリストは、罪の奴隷となっている私たちを救うために罪という負債を肩代わりする債務者のところまで降りてくださったのであり、私たちも罪の債務者のところまで降りて行くなら、贖いの代価としてのキリストのいのちを受け、罪から救われることができます。 四、神の勝利と人の勝利について 神の謙遜について聖書は「この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて、何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上げられた方なのです」と教えています(エペソ4章9、10節)。キリストは、神の御姿である方なのに、人の姿という低い所に下られ、仕える者の姿というさらに低い所に下られ、罪の債務者という最も低い所に下られたのです。そして贖いを信じる人に神のいのちを与えると、復活という高い所に上られ、顕現(人々に復活されたからだを示す)というさらに高い所に上られ、昇天という最も高い所に上られました。これが神の勝利の「V」です。 人の謙遜については、高慢な人が身を低くする人にまで下り、心の謙遜な人にまで下り、霊の謙遜な人にまで下り、そこにおいて贖いの代価としての神のいのちを受けるなら、新しく生まれる(新生)という高い所に上り、罪をきよめられる(聖化)というさらに高い所に上り、次に来る世において栄光のからだに変えられる(栄化)という最も高い所に上ります。これが人の勝利の「V」です。次は12月28日(土)「目に見える救いと目に見えない救い」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会