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カテゴリ:コラム記事
日経夕刊の一面に、毎日連載されているコラム「あすへの話題」で、2008年1月8日、お茶の水女子大学教授の篠塚英子氏が「待つということ」と題するエッセイを記しておられました。そこに書かれている通り、愚生自身、最後の待ちの時にあることを更ためて考えさせられた次第です。その後半部分を引用しますと、・・。 ・・・ 考えてみれば、待つということは、人生そのものである。人間としての姿がまだ定まらぬ内から十月十日後が期待される存在である。出産後の節句、七五三のお祝い、合格発表、入学式、卒業式、就職、結婚、出産、定年、と待つことの連続である。 そして人生の最後に近づくと、誰もが平等に死を待つことになる。生活に手一杯のときは、向こうからやってくる最終便バスに飛び乗るだけで、自分で舵(かじ)取りをした気分になっていた。だが自分ではなにもしないただ乗りが多かったように思う。 しかし最後の待ちの段階に入ると、余計なものを処分して、身辺整理をするという計画性が必要になるようだ。そんな訳で新年に当たり、待つことを再考したいと思う。 待つということに関して、愚生が思い出すのは、アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」の最後に、モンテ・クリスト伯爵がマクシミリヤンとヴァランティーヌに残した手紙の掉尾の次のような言葉です。 ・・・ なつかしいお二方、どうか幸福にお暮しくださるよう。そして、主が、人間に将来を明らかにし給うであろうその日まで、人間の慧智はすべて次の言葉に尽きていることをお忘れにならずに。 待て、而して希望せよ! あなたの友なる エドモン・ダンテス モンテ・クリスト伯爵 愚生の如く意志の弱い凡人は、エドモン・ダンテスのように長い間、待ち続ける根気は、到底持ち合わせていませんが、「待て」而して「希望せよ」というこの二つの言葉だけは、時に拳拳服膺しようと思っています。
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Last updated
2020.08.24 03:29:36
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