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カテゴリ:読書感想
昨年11月に亡くなられた伊集院 静氏の傑作エッセー集「大人の流儀」の中の「生きることに意味を求めるな」から、その後半部分の若干物議を醸しそうなお話です。 ・・・ 生きる意味なんぞ、誰か暇な奴が考えればいいの。哲学者とか、競輪場のガードマン( 最近、客がガラガラなので )とか・・・・。 生きることにいちいち意味を求めるのは、鮨を喰うのに、ミシュランとかいう馬鹿な星がふたつもついてる鮨屋のトロだから、やはり美味い、といちいち御託言いながら鮨を食べる阿呆と一緒でしょう( タイヤ屋に鮨がわかるか。若い奴に鮨がわかるものか )。 美食家? 食べ物のコウシャク言うんなら五十年、一財産喰ってから言え。 一年がまた終わる。 ひと昔前は年の瀬になると、必ずどこかで”行き倒れ”というのがあった。 「行き倒れが出たぞ。橋の下だ。行き倒れのホトケが転がってるぞ」 近所の男衆が声を上げて走っていた。 年が越せそうもなかったのか、食べるものがなかったのか。生きることが嫌になったのか。ともかく年の瀬に死ぬ人がいた。 今はとんとそんな話を聞かない。 何が不景気だ。皆何とか格好を整えて暮らして行ってるじゃないか。金だって底をついてないのだろう。なら年の瀬くらいパアーッと宴会でもやりましょうよ、社長。 仰せの通り、戦後の食糧難を生き延びてきた愚生などから見れば、今の世の中贅沢な話です。 街中にコンビにや自販機が溢れていますが、ソマリアでコンビニが成り立つとは思えません、ソマリアに自販機が置かれれば、あっという間に影も形もなくなることでしょう。 生きることに意味を求めるか否かは、個人の趣味の問題ですから、伊集院氏のようにとやこうは申しません。
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Last updated
2024.01.22 02:23:24
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