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白楽天詩集(3)
宮川俊朗 詩集では教科書にある三つを繰り返し読む。 燕詩(つばめのうた)は、劉じいさんに贈った手紙だ。私の記憶では、もっと長いと思っていたが、意外と短い。じいさんに子供がいたが、じいさんにそむいて逃げ去った。じいさんはとても悲しんだ。じいさんだって若かりし頃、やっぱりこの通り出て行ったから、燕の詩を作って諭そうとしたと序言にある。 しかし決して説教っぽくなく、むしろ劇的だ。 雄と雌の燕が、せっせと巣をつくり、四つ子を産んだ。ひなたちは食べ物を求めて、チーチと鳴くが好物の青虫はつかまえにくい、父鳥はくちばしや爪が破れても飛び求め、魂は疲れを知らない。母鳥は子供ばかりにえさをやるので、やせてゆく。それでも言葉を教え、丁寧に毛を磨いてやる。 ある朝、翼ができたので、庭の樹木に上げてやったら、羽を伸ばし後を顧みず、風に乗り四方へ散った。雌と雄が大空に鳴き、声をからして呼んでも帰らない。空っぽの巣に入り、ちゅうちゅうと夜通し鳴く。 劉じいさん、振り返ってみろよ。君がひなの日、高く飛び母に背いたあの時、父母の思いを今日こそ君が知るのだ。 私は武部さんの和訳を基に、綴ってみる。吟ずれば良し。ゆっくりと綴るもまた良しだ。思いは工夫して詩句になっているから、じっくりとたたずめば、詩句は拡散、連携し、時空を超える。 白楽天が諭し、励まそうとしたのは若いホイホイの父母ではない。劉じいさんである。白楽天も劉さんと同じくらいの年齢になっているのだろうか。少なくとも劉さんが若き父だった頃から、子供たちは全然、帰って来ない。 空の彼方のどこかに居るのだろう。東西南北の四方へ、四羽の子供たちが飛び去る。燕を四つ子としたのは、旅立ちに向けての布石である。 大空に鳴くのは、雌と雄とし、雌を先に詠じている。「子供は母を慕う、故に父は永遠に孤独である」とは萩原朔太郎だが、母性の愛はそこにいなくなった子供たちを、誰よりも先に激しく鳴く。詩に登場する劉じいさんより、妻の方が深い悲しみを抱く、男はどうしようもなく、感傷的に愚痴をこぼす。そして真先に飛び出すのも男だ。何かを成し遂げたいという目的のために邁進し、はっと我に帰ると、孤独に脅える。女は深く広い感情の海に行きつつも、能面のように平静を保つ。 このからくりは一般論だが、白楽天が詩の中で劉じいさんばかりか、奥様にも同情を寄せているのは、女性の側からがわかりやすい。紫式部や清少納言が白楽天を好きなのは、白黒相まつ心模様による。男はどうしても元気に直線的に詠う李白や杜甫が性に合う。 くちばしや爪が破れても魂は疲れを知らず。 魂だって本当は疲れている。 母は痩せ、ひなは肥えゆく。 母は父からもらったえさを、ひなに渡し、どんなにひもじくとも口にしない。 羽がはえしっかり教えて、飛べるようになったら、風に乗り四方に散飛した。 第一巻の終りである。あっさりと述べ、くどくどとは説明しない。蛇足と言っては酷だが、実に簡潔だ。 雌と雄が大空に鳴き、声を枯らして子供を呼んでも帰らない。 どれだけ遠くまで飛んで捜したことだろう。子供のいない空巣に帰り、ちゅうちゅうと夜通しすすり鳴く。 どこの家にもよくある話だろう。語句を加え尾鰭を美しくつければ物語になる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.11.26 10:02:50
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