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奄太郎が語る!仕事と遊びと諸国行脚!

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2007年11月30日
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カテゴリ:勝手に野球談義
 今の球界では「ご意見番」として前述した大沢親分や張本さんが有名ですが、いつの時代にもこういう人はいるもので、この浜崎監督も「球界の彦左(大久保彦左衛門)」といわれた人でした。

 砂押監督時、Aクラス入りは果たしたものの、立教や日立という出身で派閥が出来てしまい、カネヤンの非協力もあって砂押監督を更迭したのち、この浜崎監督が就任しました。

 浜崎監督は特異な経歴の持ち主で、慶応義塾時代に野球部の存続に尽力したり、満州国に行き(満州国の満鉄野球部はとても強かった)、満州映画で働いたり、戦後プロ野球が創設されると阪急などで活躍、なんと45歳でプレイングマネージャーになってしまったり、48歳で投手として登板したりと今の時代には考えられないことをしていました。また、背がとても小さく150センチちょっとしかなかったといわれています。

 後、浜崎真二は「辛口」と評判の解説者をつとめていたのですが、国鉄の監督に招請され球団運営に乗り出しました。

 早速行ったのは「天皇カネヤン」を認めないということでした。あくまで近代野球を標榜していましたので、今までの藤田、宇野、砂押監督と違い、カネヤンのご機嫌をとることは一切せず「チームは全てのもの」との持論を譲りませんでした。当時、西鉄ライオンズから豊田泰光を獲得し、「国鉄の職員チーム」から「本格的プロ野球チーム」への転換を図った点では近代スワローズの礎を築いた監督でした。

 この頃からスワローズは少しずつ変わり始めます。

 つづく

 





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最終更新日  2007年11月30日 04時59分55秒
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