『雪国』思いの外にわがままで難解で、そして
『雪国』川端康成(新潮文庫) 上記作品の読書報告の後半であります。 前回書いていたことは、 (1)個人的な話ですが、『雪国』は懐かしーなー。 (2)『雪国』の設定は、かなり男のわがままな設定ではないかしら。 とまー、こんな内容でありました。 このたび数十年ぶりに『雪国』を再読し、かつては「ディスイズ日本文学」とまで思っていた作品ではありましたが、再読してアラが見えるということではなくて、この作品は、決して日本文学を代表する作品ではないぞという(優れていないということではなく)、当たり前といえば当たり前の事に、私はやっと気がついたのでありました。 例えばこんな表現。 雪を積らせぬためであろう、湯槽から溢れる湯を俄づくりの溝で宿の壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い泉水のように拡がっていた。 ちっちゃな文ですが、この文は明らかに破格ですね。後半部の主語がありません。 とってもわがまま勝手な文という感じですね。 しかしそんなことを指摘すると、作者が、「主語がない? おや、主語がなくちゃいけないのかい? これで、お前さんは分からないのかい?」とでも聞いてきそうな文です。 確かにこんな文章の連なりが生み出す変な酩酊感、それが雪国の閉鎖空間、あるいは閉鎖した男女関係のイメージと重なって、独特な世界をフォローしていきます。 うーん、策略的ですねー。 下記の有名な比喩表現も改めて読みますと、あざとさと紙一重であります。この部分。 そういう時、彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。ともし火も映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。 川端康成は谷崎潤一郎と比較されることが多々あるようですが、こと、文体に関する限り、両者にはかなりの隔たりがありそうです。 谷崎の文章は、丁寧な、お手本通りの文章に近いです。まじめにちゃんと日本語文法を守っています。 しかし、川端の文章は遙かにわがままで、良く言えば「無手勝流」、悪く言えば「ルール違反」ですかね。私は、江戸時代の「俳文」の飛躍に近いんじゃないかという感想を持ちました。 このあたりを以て「新感覚」というのなら、なるほどその通りでありましょう。 さて最後に、今回の再読で私が一番「違和感」を持ったのは、駒子の言動であります。 本当のところ、この女性はうまく書けているんだろうかとまで思っちゃいましたね。 例えば酔っぱらって島村に崩れてくるシーンとか、日記をずっと書いていたり小説が好きで読んでいたりなんてのは、なんだか卑近な例えで申し訳ないのですが、まるで大学文学部の女子大生のようではありませんか。 そう感じつつはっと思ったのが、駒子の年齢なんですね。作品内の時間が三年流れますが、なんと彼女は十九歳から二十一歳なんですね。 うーん、これでは女子大生もさもありなんですかね。 今の時代ほど若者の幼児化が進んでいないとしても、なるほど、大学入学後すぐの新入生歓迎コンパで飲みつぶれる女子大生、って、これはちょっと、書きすぎですかね。 ともあれ、『雪国』の描写は、思いの外にわがままで難解で、しかしその難解さが効果を及ぼしながら進めていくストーリーは、思いの外に「通俗的」であると、今回の再読で私は感じたのでありました。 あ、忘れていました。 前回の報告文で、問題をひとつ作っていました。川端らしい驚くような比喩表現についての問でした。 答えを当てはめた文はこれです。 窓で区切られた灰色の空から大きい牡丹雪がほうっとこちらへ浮び流れて来る。なんだか静かな嘘のようだった。島村は寝足りぬ虚しさで眺めていた。 正解は「嘘」。 ねっ、ほとんど「ルール違反」って感じでしょ。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村