近代日本文学史メジャーのマイナー

2009/07/23(木)06:19

強烈な才能が、なぜ「超一流」を作らないのか。

明治期・写実主義(9)

   『其面影』二葉亭四迷(岩波文庫)  翻訳小説ではなく、二葉亭四迷が自分で書いた小説は(全集にのみ収録されているような短いのとか、習作めいたものを除いて考えますと)、たぶん三作じゃないかなと思うんですが、この度上記本を読んで、三つ全部読みました。  で、読書直後の印象としては、うーん、混乱しています、私が。  強烈な才能の存在を感じる(恐ろしいような、時代への「先見性」であります)一方、なぜこの強烈な才能が、超一流の文人を作り上げなかったのかという「混乱」です。  最初に『浮雲』を読んだ時は(もう昔なので、たぶん細かいことを忘れてしまっているのだとは思いますが)、かなり面白い、面白いと思いながら読んで、あー面白かったと感心したと思います(ちょっと怪しいですね。だってあの作品は中絶ですから)。とにかく、好印象が残っています。  次に『平凡』を読んだ時は、これはかなりびっくりしました。  これは分量は少ないですが(『坊ちゃん』くらいの長さの本ですね)、本当に驚くばかりの斬新さを感じました。  読みながら、いろんな作品や作者名がちらちらとしましたね。  例えば、漱石は『坊ちゃん』や『こころ』、太宰治なら『道化の華』、そのほかにも筒井康隆なんかが得意としている「メタ・フィクション」系の小説も。  特に漱石への影響関係は、これは定説として、何かきっちりした研究があることと思いますが、少しそういうのも知りたいですね。  漱石が二葉亭について高い評価をしていたことは、何かで読んだような気がします。(鴎外もかなり褒めています。もっとも、あの時代に『浮雲』なんて「怪作」を書いたら、褒めないわけにはいきませんよねー。)  しかし、漱石の諸作品については、それ以上の深い影響関係を感じます。  とにかく、全然古びた感じがしません。特に文体。  ただ、内容的には、作者自身が充分自覚しているように、途中で「うっちゃった」ようなところがあって、深みには欠けるものの(でもこの「ほっぽり出し方」こそが、二葉亭らしさではあるんですが)、文体だけで充分読ませるものがあると思いました。  しかし、『平凡』の読後感は、今回『其面影』を読み終えた時のような混乱したものではありませんでした。  あんまり混乱したもので、確か1.2年前くらいに読んだ下記の本を手にとって、思わず再読してしまいました。この本です。  『二葉亭四迷の明治四十一年』関川夏央(文春文庫)  この本は、かつてこのブログで報告した、同作者の『白樺たちの大正』に比べるとややボリュームに欠けます。ブルドーザーで強引に道を切り開いていくような「力業」は、あまり感じられません。  それに、この本の「作り」として、二葉亭四迷は主人公ではありますが、章によっては「狂言回し」的にしか扱われていないところもあったりします。  関川氏は、文芸評論ではないつもりでこの書を書かれたのだと思いますが、はしなくも、文学とのこの距離のはかり方は、影響を受けてか否か、二葉亭にとてもよく似ていますね。  二葉亭も、関川氏も、ともに文学に対して、嫌いとは言い過ぎにしても、一線を引いています。(関川氏は株の話がお好きだそうです。)    さて今回も、関川氏の優れた導きをいただきながら、あれこれ考えてみたいと思いますが、キーワードは、「混乱」です。  何がキーワードは「混乱」なのかとお思いかもしれませんが、そこがそれ、大いに混乱している由縁ですね。はは。    でも、ちょっとずつまとめていってみます。まず、  (1)作者の混乱    (2)作品の混乱  ということで、以下、次回に。 /font> にほんブログ村

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る