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2010.05.08
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  『風立ちぬ・美しい村』堀辰雄(岩波文庫)

 それから私たちはそうして手を組んだまま、一つの沢の前に立ち止まりながら、押し黙って、私たちの足許に深く食いこんでいる小さな沢のずっと底の、下生の羊歯などの上まで、日の光が数知れず枝をさしかわしている低い潅木の隙間をようやくのことで潜り抜けながら、斑らに落ちていて、そんな木洩れ日がそこまで届くうちに殆どあるかないか位になっている微風にちらちらと揺れ動いているのを、何か切ないような気持で見つめていた。(『風立ちぬ』)

 八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色の裾野が漸くその勾配を弛めようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を平行に拡げながら、南を向いて立っていた。その裾野の傾斜はさらに延びて行って、二、三の小さな山村を村全体傾かせながら、最後に無数の黒い松にすっかり包まれながら、見えない峪間のなかに尽きていた。(『風立ちぬ』)

 上記小説の読書報告の後編であります。
 前回は、同短篇集にもう一つ入っている『美しい村』を取り上げて、堀辰雄独特の文章についての感想を書きました。

 上記の引用文の一つ目などは、読みづらくも、一つ一つの言葉に躓きながらイメージを形作っていくと、とても瑞々しいものが朝の水蒸気のように立ち現れるという、そんないかにも「堀辰雄製」と言えそうな文章であります。

 なるほど堀辰雄の文章は、このように実に美しさを発揮するものではあります。
 しかしそれだけでは、堀作品は一部の文学マニアに読み継がれるだけであったでしょうが、人口に膾炙された堀辰雄らしいイメージは、今更ながらにこの『風立ちぬ』のストーリーにあります。

 かつて僕が文学青年であった頃(今となっては「大昔」なんでしょうが)、僕はなぜか堀辰雄の作品には出会いませんでした。
 多分堀辰雄と同じような「ランク」の作家で(「ランク」ってのも変な使い方ですが)、僕が「出会った」のは、太宰治・梶井基次郎・中島敦ではなかったかと、自分では思っています。
 友人に『堀辰雄全集』を持っていた奴もいましたが、なぜか僕はほとんど入っていきませんでした。

 今回読んだ『風立ちぬ』は、多分再読だと思いますが、もしこれを十代後半か、二十代初めの頃にしっかり読んでいたら、ひょっとしたら僕の読書傾向は少し変わっていたかなと思いました。

 冒頭に二文引用をしてみましたが、二つ目の文章なんかは、いかにも「文学青年」が感心し、憧れ、そしてこっそりと真似をしそうな描写でありますよね。

 その上、ストーリーの素材が

   婚約者・結核・別荘地・サナトリウム・死

ときて、タイトルがポール・ヴァレリーの詩句

   「風立ちぬ いざ生きめやも」

からと来れば、なんかもう「煮つまっている」という感じなんですが、これは一体どういうことなんでしょうね。この堀辰雄が、そもそもの「オリジナル」なんでしょうね。

 何のことかといいますと、今に至るまで間欠泉のように世間に現れ続ける「大恋愛」小説・映画・テレビドラマ・漫画などのことです。
 最後に男女どちらかを「殺して」、そして巷間の淑女達の涙を絞るというたぐいのやつですね。

 今回僕は、この作品を「批判的」に読み始めてみました。
 再読であったし、この話は「できすぎ」で、通俗的でありすぎるんじゃないかという気がしたんですね。
 そしてそう思って読んでいくと、五章あるうちの始め三章あたりまでは、確かに作者の自己満足のように読めないでもありません。煽りすぎのエピソードと感じる個所も見られそうです。

 しかし、第四章から日記形式がきちんとなり(三章までは、「手記」の形でしょうか)、四章の終わりに恋人の死が暗示され、第五章はそれから一年後の、たった一人の冬の軽井沢での山小屋生活が描かれます。

 このあたりに来ますと、さすがに凡百の通俗恋愛小説作家には書けない描写です。
 「死」の静謐さと象徴性が、雪の野山や林や夜、灯りやそして大気の中にまで、しみ通るように描かれています。

 なるほど、「風立ちぬ いざ生きめやも」とは、こういう意味であったのかと思わせる圧倒的な作者の筆力に、僕は少しため息をつきながら、やはりもっと若かった頃にこれを読んでいたらと、再び考えるのでありました。


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Last updated  2010.05.08 09:32:10
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