2010/02/23(火)06:30
作家は生涯最後の小説をどんな思いで書くのか。
『無事の人』山本有三(新潮文庫)
以降一作品も書かないというほどではなくても、小説家として齢を重ねてきて、この作が最後の小説だぞと「決意」しつつ書くというケースは、作家にあるものなんでしょうかね。
一般的に考えると、年を取ってきたらそのように決意しながら書くことはありそうにも思いますが、いわゆる「定年退職」のない職業って、案外その「けじめ」は難しいですよねー。
自殺なさった作家にしても、本当にこの作品を生涯最後のものとすると、考えたであろうとわかる小説があるかといえば、実はよく分かりませんよねー。
例えば太宰治でも、芥川龍之介でも、川端康成でも、……なんかみんな「発作的な死」という感じがどこかしますものねー。
もちろん、例外の方もいらっしゃいます。
三島由紀夫ですね。この方はやはり、生涯最後の小説をきっちり自分で演出して、お亡くなりになったんだろうと、まぁ、考えられますわね。
えー、何が言いたいのかと申しますと、今回報告の作品は、山本有三の最後の小説なんですね。
発表が、昭和二十四年、亡くなられたのは昭和四十九年ですから、その間、二十五年という「タイム・ラグ」がありますが、こういう、最後の小説と没年の間に懸隔のある作家は、時々見られます。これは、小説家の「タイプ」なんでしょうね。
志賀直哉とか、司馬遼太郎などがそうです。
一方、この懸隔のほとんど無い小説家もいらっしゃいます。
例えば、野上弥生子とか、谷崎潤一郎なんかもそうですよね。
さて、今回の報告作品『無事の人』でありますが、繰り返しますが、筆者の最後の小説です。そして、いかにもそれにふさわしい作品であります。
まず、こんな表現に注目してみます。
それにしても霧の中で、じいっと目をつむって刃ものをといでいるこの老人は、なんというりんとした構えであろう。それはただ指のさきを動かしているのではない。腕で、肩で、腰で、いや、からだ全体でといでいるのだ。口を結び、息をこらして、身も、魂も、ことごとく、小さい光るものの上に集中させていた。それは、さながら神に祈りをささげている人の姿だ。静かでありながら、近づくと、はじき飛ばされそうなものを、あたりにただよわせていた。
いわゆる「職人話」なんですね。
一般的に、「職人話」は二つの系統があります。
「芸術系」と「人情系」です。
「芸術系」は、簡単に言いますと、技術が生き方・哲学に昇華するタイプの話です。幸田露伴の『五重塔』をはじめ、久保田万太郎の「職人話」なんかもそんな感じですね。
一方「人情系」は、これはまぁ、「人情話」に流れていくタイプです。山本周五郎なんかが得意そうです。
さて本作は、基本的には「人情系」でありながら、そこに留まらず、作者がなかなか面白い工夫をしています。
それは、人情話の語りの合間合間に、「人類の未来への祈り」とでもいえそうな主張を挿入していることです。これが、少々説教臭くはあるものの、なんとも不思議な味わいを出しており、本作の独特の個性となっています。
大きなコマがくるくるまわっている。すごい速さでまわっているので、心棒も鉄の輪も見えない。まるで丸い盤が回転しているようである。コマはビューと、うなりを立てている。
不思議なことに、そのうなり声の中から、ときどき人の声のようなものが響いてくる。耳を澄ましていると、何か意味のあることばが漏れてくる。
「……世の中で人間の到達しうる唯一の安定は、コマもしくは、自転車の持つ、あの安定である。……安定な状態というのは、絶えまのない前進である、という逆説的な教訓を、われわれは学ばなければいけない。」
こんな表現はやはり、発表された時代のせいでしょうね。
昭和二十四年という、崩壊した「アンシャン・レジューム」を見つめる一定の時間が過ぎた後、「再生」に向かってやっと動き始めたものに対して、過去の愚を繰り返すまいと囁く「祈り」。
たぶんこの時代が、そんな表現に最もふさわしかったのじゃないかと思います。
だとすると、その時代に、生涯最後の作品を書くことができた筆者は、とても「幸運」だったと言えるのかも知れません。
いえ、もちろんそれは、全く逆の考え方、つまり、その後の未来の進み方に絶望し、「筆を折った」結果であるとも考えられます。
そうだとすると、かなり辛い「バッド・エンド」になってしまいます。
はたしてどちらであったのでしょうか、今の、この日本は……。
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