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カテゴリ:昭和期・新感覚派
『お吟さま』今東光(新潮文庫) どうもこの方面のことは疎いもので、この方面における「一般常識」のようなこともよく知らないでいます。 何の方面かと言いますと、「歴史小説」(と書きかけて、え? 「時代小説」? この両者はどう違うんでしょうか、それとも同じものなんでしょうか)の方面であります。 上記の( )の中の自問ですが、ちょっと考えてみたんですが、感覚的には『銭形平次』は「歴史小説」とは言わない、あたりの感じ方を僕はしているんですが、これでいいんでしょうかね? 「歴史小説」について僕のような素人が考えることというと、すでに多くの方が考えてきたことだろうと思いますが、おそらく下記のテーマでありましょう。 「歴史小説と歴史的事実との関係はいかなるものか」 そんなことをぼんやり考えていますと、僕が今まで読んだ数少ない歴史小説作家が上記のテーマ(あるいは準ずる話題)について述べた言葉が、ちらほらと浮かんできます。 例えば、司馬遼太郎氏は、「坂本龍馬という人はとても明るい人ですね」と言われたとき、それは私がそう書いたからだと言ったとか言わなくても思った、というエピソードが浮かびました。 なるほど、日本人はとても坂本龍馬が好きで、そしてその龍馬像の基本的な骨格を作ったのは、間違いなく司馬遼太郎氏の『龍馬が行く』でありますよね。 土佐は桂浜にある、遙か太平洋に臨んでいる龍馬像は、間違いなく『龍馬が行く』のあの骨太の明るさと人間性を持ったメイドイン司馬遼太郎=坂本龍馬でありましょう。 でもあの坂本龍馬のキャラクターが、実はどこまで歴史的事実なのかということを、上記のエピソードは語っていると思います。 同じ司馬氏のエピソードをもう一つ書いてみます。司馬氏は『坂の上の雲』を書いたことで、少なくない人たちから絶交宣言を受けた、と。 これについても、明治時代が舞台の作品ですと関係者やその子孫の方が多く現存なさっていましょうから、いかにもありそうなエピソードです。 『坂の上の雲』には(特に軍人関係において)、「悪人」とは描かれいてなくても、読めばほぼ「無能の人物」だと思える登場人物が少なからず出てきます。 それらの登場人物のモデルとなった人々の親族にとっては、そんな記述は簡単に許しおけないものでありましょう。 なるほど、こういう風に考えていきますと、少しずつ何か見えてきそうな気がします。 それは、小説内容が歴史的事実に近づくということではなくて、たぶんこういうことですかね。 (1)「歴史的事実」というものが、完璧に事実・真実として単独に存在しているというとらえ方は、そもそも誤りではないか。考えてみれば、我々の卑俗な日常生活においても、事実や真実はしばしば解釈・主観によって異なった姿をしている。 (2)仮に事実には紛うことのない客観性があったとしても、それを語る文体は作家の主観から逃れることはできない。 かつて三島由紀夫がこういった要旨のことを書いていたのを思い出しました。 (このエピソードも含めて、上記にも出典を明示していないエピソードを挙げております。誠に申し訳ないとも思いますし、えー、ちょっと、こういう風にも考えて、本文をお楽しみいただくとうれしいんですが。つまり、「司馬氏・三島氏のエピソードは、analog純文のでっち上げであるかもしれない。」と。) かつて三島氏が書いていたのは、こんな内容だったと記憶します。 「なかったことは歴史には書いていないというのが、歴史小説の生命線である。」 真正面から捉えればいいのか、アイロニーであるのか、少し判断の迷う表現でありますが、いろいろ解釈のできそうな含蓄ある言葉だと思います。 さて、もう報告終盤になってきましたが、『お吟さま』であります。 この小説はベストセラーになったんですね。 千利休がらみの小説というものはたくさんありましょうが、僕は野上八重子の『秀吉と利休』しか知りません。 そして、それに比べますと(もちろん分量がまるで違いますが)、やはりやや荒い・弱い・柔いような感想を持ちました。 でも、こっちの方が「普通」の歴史小説なのかもしれません。(野上八重子の小説の文体はかなり構造的でがっちりしていますが、時に硬質過ぎる感じがしました。) ただ一つ、「純文学」めいた感想を持ったのは、筆者がなぜこのような、強烈に現代的な意志力の強い女性を描いたかと言うことです。しかしそれについては、文庫本の解説に触れてありました。 なるほど。かつて室生犀星が、自らのことを小説に書くのに憚りのある時は、「昔、大納言がいた。」と書けばよいと言ったといいますが、それはこういうことなんですね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.06.19 07:47:49
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