近代日本文学史メジャーのマイナー

2010/05/20(木)06:35

人間と妖怪の微妙な愛憎関係

明治期・浪漫主義(22)

  『夜叉ヶ池・天守物語』泉鏡花(岩波文庫)  『ゲゲゲの鬼太郎』って、とっても面白いですね。  何度もテレビアニメ化されたり、近年は実写で劇場映画化されたりもしていましたね。きっと根強い人気があるんですよね。  そんなに深く入れ込んでいたわけでも、また考察したりしたわけでもありませんが、僕も割と古くからの鬼太郎ファンです。少年マガジンに『墓場の鬼太郎』というタイトルで連載していた頃から知っています。  鬼太郎漫画の魅力はなんと言っても、バラエティー豊かな、次々と現れる妖怪の魅力でしょうか。  日本人は妖怪が好きですね。  でも、これって日本だけの現象なんでしょうかね。うーん、よくわかりませんが、そうだとしたら、それは日本の特殊な文化傾向なのか、それともずばり水木しげる作品の魅力ゆえなのか、こんなあたりも研究すればいろいろ面白いでしょうね。  ともあれ、「人間は妖怪が好きですね」という言い方に変えた方がいいのかもしれませんが、とにかくそんな状況分析がある、と。(って、人ごとみたいに書きましたが、もちろんこれは僕が勝手にアバウトに状況分析したわけであります。)  さて冒頭の作品でありますが、最初につまんないことを一つだけ。  この作品は、本ブログで初めて取り上げる戯曲作品です。今まで基本的にずーっと小説作品だけを取り上げてきましたが(評論はいくつか取り上げました)、実は僕はさほど頑なに小説のみを読んでいるわけでは、まぁ、ありません。当たり前ですね。  本ブログに取り上げる作品も、もうそろそろそんな「頑なさ」はやめにして、少しずつ懐深くということで、(詩作品なんかも先日取り上げましたように)ジャンル枠を広げていこうかと考えています。まぁ、どうなるかわかりませんが、そんなことで、よろしく。  閑話休題、冒頭の二つの戯曲ですが、いやー、実に見事な戯曲であります。  なるほど、漱石が天才であるといい、芥川や志賀直哉や並みいる文豪がその魅力を大いに語ってやまない泉鏡花ですが、さすがに凄いですよねー。ト書きにまで気合いが入っていますよ。例えばこのト書き、クライマックスのシーンのものなんですが。  学円  (沈思の後)うむ、打つな、お百合さんのために、打つな。  晃   (鎌を上げ、はた、と切る。瞠と撞木落つ。) 途端にもの凄き響きあり。……地震だ。……山鳴だ。……夜叉ヶ池の上を見い。夜叉ヶ池の上を見い。夜叉ヶ池の上を見い。真暗な雲が出た、……と叫び呼わるほどこそあれ、閃電来り、瞬く間も歇まず。衆は立つ足もなくあわて惑う、牛あれて一蹴りに駈け散らして飛び行く。  鉱蔵  鐘を、鐘を……  嘉伝次 助けて下され、鐘を撞いて下されのう。  宅膳  救わせたまえ。助けたまえ。         (『夜叉ヶ池』)  二作品共に見られる絢爛豪華な音楽的な台詞回しが、まず見事であります。  それに加え、『夜叉ヶ池』ならば、上記に引用したあたりがそうですが、大洪水の起こる場面のカタストロフィーの見事さ。  まさに勧善懲悪、観劇の楽しさを存分に味わえる作りになっています。  一方『天守物語』においては、ドラマツルギーが見事ですねぇ。  舞台は姫路城の天守閣のみで、階下に起こる事件を天守の人物が実況報告しつつ物語が進んでいくという、なんか「飛び道具」のような展開は、いかにも舞台芸術の象徴性を見事に具現化した、小憎らしいばかりの作劇と演出になっています。  さてそこに主人公となって現れるのが、二作品共に妖怪であります。  いえ、厳密に言いますと、二作品の主人公の「姫」は、過去に人間によって無念の死を遂げさせられた女性が妖怪へと生まれ変わり、その恨みを晴らす(それも、そのきっかけはどちらも人間側の裏切りや非道にあって)、という形のものです。  醜い人間世界と、美しく誇り高い妖怪世界というこの構図は、いったい何なのでしょうか。  冒頭にふれました、妖怪好きの人間という分析とあわせ、ほんの覚え書き程度の事柄を最後に二つ、まとめておきたいと思います。  ひとつは、妖怪と人間の力関係が、その分析には重要なのじゃないかということです。『天守物語』の時代設定は封建時代となっていますが、『夜叉ヶ池』は現代、つまりこの劇が書かれた大正期であります。  この時代、妖怪は一般的に恐れられていた存在なのでしょうか。  そんなことを考えると、その先には、明治の文明開化以前の古い日本からの、現代(明治・大正時代)を照射する文明批判的な光を読み取ることができそうな気がします。  そしてもうひとつ、人はなぜ妖怪を愛するのかということですが、それは妖怪が、自然を我々が感情移入できるような形に擬人化したものであるからということです。  だとすれば、妖怪とは、全く日本の八百万の神やギリシャの神々と相似形に重なる自然への親近感であり、さらに、妖怪への嗜好とは詰まるところ、流行りの環境問題なのではあるまいか、と。  なるほど、時に煩瑣な環境問題の先に、例えば「一反木綿」が「ぬりかべ」が、そして『夜叉ヶ池』の「白雪姫」がいると考えると、何ともいえぬ親しみとリラックス=脱力感が感じられて、怠け者の僕なんかは、とってもうれしいんですがねー……。  よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓  俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 /font>

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