自分たちが育ってきた時代。
がむしゃらに未来を夢見ることが当たり前だった頃。
全てが満ち足りていたわけではなく、ある程度の我慢も強いられた、なぜなら・・・・・父母もそんなに裕福ではない、ぎりぎりで必死の子育てを懸命にしてきてくれたから。
欲しいものが全て手に入るはずもない。細々とした収入は、必要不可欠なものから順に割り当てられていたはずだから。
だから本当に欲しいものは、自分で働いて手に入れるものだ・・・・・と自然にそう思うようになっていた気がする。
今、こんなにも変化の激しい時代。
物と情報があふれ、振り回されそうな、なんだかおぼれそうなほど・・・・・。
健やかな子育てのあるべき姿(根本)が変わるわけではないのに、
家庭や社会の環境の変化は、子育てのあり方にさまざまな影響を与えている。
自分が育ってきた頃、その育てられ方とは違う・・・・・経験したことのない悩みを突きつけられる。
我が子とて同じこと。迷いばかり。
親としてこれでいいのかとの命題を常に突きつけられる日々の連続・・・・・。
例えば、お友達とのかかわり・遊びの中で、常に悩まされていること。
・・・・・ゲーム機とカードゲーム。
これだけあふれている時代だから、ゲーム自体を全くさせないとはいわないけれど、時とか場所がわきまえられていないことや金銭感覚の薄さ(物の価値や値段に無頓着)にいつも腹が立ってしまう。
友人と遊ぶといって集まり、自分だけのゲーム遊びに没頭する・・・・・友人はそっちのけという神経が許せない。
何かの目的でその場所へいくのに、常にゲーム機がお供。
移動中、待ち時間、暇つぶし、果ては自分勝手に・・・・・時も場所も選ばないこの代物は、まわりのことを考え思いやる余地を持たせない。
そういうことの積み重ねが、はぐくまれるべき”他者への目・心”を奪っている気がする。
目が悪くなるからという理由で、我が家は持ち歩きできるゲーム機は買っていない。しかし遊びに行った友人宅では借りてやっているようである。出来るだけ外で遊ぶように言い聞かせるのであるが、見えないところではどうしようもない。親同士が連絡を取り合い、お互い注意を促すようにするくらいしか手立てはない。後は子供の自覚次第・・・・・。
カードゲームには、もうかれこれ10年くらい頭を悩ませている。
新しいものも次々と出てきてとめどない。
どうしても、あの紙片(というと失礼だが)にお金をかけて収集するという気にはなれない。ここが世代の違いなのかな。
持っていないと仲間はずれのようなところもあるのか、友人の古いカードをいただいてくることもあった。店に行くと新しいものが次々と、これ見よがしなパッケージで並んでいるので、誘惑に勝てないらしい。
過去には、”強い”カードを誰もが欲しがり、遊んでいるうちにそのプレミアカードが紛失して後味の悪い思いをしたという話を、友人から少なからず聞かされた。(それも私のカード嫌いの一理由である)
考えるときりがないのだが、何もかも無制限というわけにはいかない。
あるときには我慢を強いられることも大事だと思う。それでなくても、恵まれすぎている時代だから・・・・・。
何が大事か、何を大切にせねばならないのか。
あるべき姿は親がきちんと考えて教え込んでいかねばならないだろう。
こういいながら、まだまだ未熟な親である自分・・・・・
子供たちは常にいろいろな課題を突きつけてくる。
”親は子に育てられている”ことも確かだと実感させられる日々である。
*ヒントをいただいた kazumi521さん にTBさせていただきます。
ありがとうございました。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
もっと見る