カテゴリ:考えること
通っていた大学はわりと自由な校風でした。
というか、ほおっておくと毎日文化祭をやりかねない、いや出来れば一生文化祭をしていたいタイプを集めたいような場所だったのです(伝統ある古い学校だけど、考えてみればよく大学として認可されていますな…)。だから、そこに集う人達の服装も派手だったり奇抜だったりが多くて、けっこう見飽きないものがありました。 おしゃれしている人を見るのが大好きな私。自身は口紅もきちんとひけないようなお子様だったくせに、当初はいっぱしのファション評論家気取りでスクールバスの中で、きょろきょろしまくっていたのです。 が、入学して一ヶ月、急に観察がいやになってしまいました。 「この人達派手な服を着たいから着てるんじゃなくて、『おれって、私ってこんなに変わっているの』と言いたいがため着ているんじゃ…」 と感じてしまったのです。 「そう思う感性自体が陳腐なんだよなあ」なんて考えてしまったのです。 「人と違う私」を主張するなんて、恥ずかしすぎる…と思ったのです。 なんだか無性に反発したくなりました。 派手で変わってる服なんて、つまらないよ。私はあえて派手でも変わってもいない服こそ、いいと思うね!! というわけで「極力フツーの格好」にこだわるようになってしまったのです(大バカです~)。ある意味つまらない格好。目立たない、そのまま公務員試験を受けに行けるような格好をつきつめることにしました。つきつめようもないのですが、まあ紺のスーツとか着てみました。 そしてメイクは(以前も書きましたが)ばっちりして…。 浮いてましたね。 めちゃめちゃ老けて見えていたと思います。 実際奇異に見えたらしく、「今日これからなんかあるの??」とよく聞かれたりしていました。 それに飽きると今度はジーンズにシャツという普通きわまる大学生スタイルにしてみました。本人もつまらんなあ…と心底思っているのですが、なにか工夫するのも悔しい気がしていたのです。 そんなわけで、思い出に残る服も数枚はあるものの、基本的に大学時代の服は「自意識過剰のあまり平凡すぎ」で記憶に残るものが多くありません。 もしかたら人生で一番綺麗な時期だったかもしれないのに、劇アホですね。この事を思い出すと悔やんでも悔やみきれず、自分の愚かさ加減にくらくらしてしまいます。 美大受験予備校に勤めだしてのびやかに服とのつきあう人を多く見たり、光野桃さんのエッセイに出会ったりして「くだらないこだわりなんてバカみたい、自分が着たい服を着よう…」と思うまでの時間は本当に無駄でした。 自分の着たい服、落ち着く雰囲気にしよう。 バリに旅行した時買った現地の布で巻きスカートを作り、アウトレットで買った白いぺなぺなのシャツに変形カーディガン、黒いしっかりしたサンダルという格好を見つけたときは本当に心の底からほっとしました。 そっか、ずっとこんな格好がしたかったんだ…。 なぜかかなりの率で東南アジア出身留学生と間違われるリスクはあるのですが、これを着ていると不思議と明るい気持ちで仕事が出来、人とも自然に話せるのでした。 ただこのスタイルは夏だけしか通用せず、ここから「アジアっぽい冬服」を探す旅がはじまるのですがそれはまた別の物語です。 話は戻りますが、他人に反発することはあっても、それを原動力にするとかなりの確率で人生を踏み誤ります。 あー、なんか違う意見だなあ、よーし絶対ああはなるまい (結局否定したものとつきあいまくっている)。 あー、なんか違う意見だけど、でもあの意見はあの人の人生の流れから生まれたもので仕方がなくて、私は私の流儀でしたいようにしようっと~ (否定したものとは、さほどねっとりおつきあいしていない)。 後者の方がわりといい気がします。 第一、派手な格好してたからって陳腐な発想がベースになっているという確証はどこにもなかったのです。もちろん、多少は「変わってる自分」を演出するために衣装を使っていた人もいたとは思う。でもそれだっていいではないですか。本人が楽しいのだもの。そうしたいのだもの。 要するに当時の私、自分自身のつまらなさに辟易していたのですね。 今になって理解できるのです。 自分の気持ちに忠実な服を着ること(本当は作りたいけど今はそこまで手をひろげられないな)…難しいけれど楽しい、楽しいけれど難しい課題です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 18, 2005 11:37:18 AM
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