2997299 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

【亞】の玉手箱2

【亞】の玉手箱2

佐久間象山に非業の最期を告げた卦

【佐久間象山に非業の最期を告げた卦~幕末維新の人物】


佐久間象山が殺される前に
自分で立筮して得た卦があります。
それは「澤天夬(たくてんかい)」
変爻は上爻です。


本文

卦辞:
「夬は、王庭に揚(あ)ぐ。
 孚(まこと)ありて号(さけ)び
 あやうきことあり。」



上爻の爻辞:
「号(さけ)ぶことなかれ。
 ついに凶あり。」




   ☆   ★   ☆


澤天夬~「夬(かい)」は「決する」
「切り開くこと」。
決断の「決」もそうです。
堤が決壊するという場合も、この「決」です。
何かというと、スパッと決める。
思い切ってバシッと決める。


それによって、余分なものを除き去る
というのが「夬」のもともとの意味です。


澤天夬は、陽気が壮んになってきている。
もし人間界に照らし合わせたとしたら・・・


例えば、仮に
陰を小人、陽を君子とします。
そう見れば、君子が伸びてきた。
あくまでも例えですが。
澤天夬を本で読むと
すぐに悪人を退治するとか、小人が亡ぼされるとか、
土壇場で追い詰められて悪事が露見して
周囲から切って捨てられるとか
酷いことが書かれています。


これを組織としてみたとしたら
小人が一番上の位にいるように見えます。


小人と君子に分けて説明しました。
そのほうが解りやすいから。
でも時の勢いというものがあって
君子であっても、その時の勢いに勝てずに
滅ぼされるということがあります。


佐久間象山は小人どころか、
傑出した人物です。
それなのに、澤天夬を得た。
澤天夬の上爻が必ずしも
小人とは限らないわけです。


前置きはこのくらいにして・・・


   ☆   ★   ☆


以下、佐久間象山の門人であった
北澤正誠・外務省書記官が
高島嘉右衛門に語った話
です。



佐久間象山先生は早くから洋学を教え
その傍ら、易学を門弟たちに説いていた。
私も、門下の一人だったので
しばしば先生の講説を聞けた。


あるとき長州藩の吉田松陰氏が
密かに洋行を図り、
外国船での密出国を企てた。
先生はその志を大いに褒め称え
国を憂う悲憤慷慨の詩を作って送った。


松陰の企てが発覚するに及び
佐久間象山先生もまた
幕府の嫌疑を受け、江戸に幽閉させられ
後に本藩、信州松代に遷された。


時勢の変遷により
遂に先生の先見力・達識が大きく世に認められ
先生の難も自ずから解けた。


このとき長州侯が佐久間象山先生の
偉人であることを聞きつけ
木戸孝允氏を仲介して招聘しようとした。
象山先生は固く辞退して応じなかった。


また、薩州侯も先生の名高きを聞き
西郷隆盛氏を仲介して招聘を図ったが
象山先生はまたもや固辞して応じなかった。


元治元年三月、
一橋公(徳川慶喜)が使いを遣し
先生を召された。
佐久間象山先生は初めて応じた。


     ☆


【弟子に勧められ立筮「澤天夬」を得る】


私(語り手の北澤正誠氏)は
これを聞いて先生にお会いして言った。

北澤:
「先生が一橋公の命を奉じ上京される由。
 先生は常に易をたしなみ、
 事あるに臨み必ず筮を執られますが、
 今回はどのような卦でしたか」


先生曰く:
「易は事物の決断に迷う時に用いるものだ。
 今や諸外国がわが国に迫り国は艱難の時。
 士たる者、吉凶を問うべき所ではない。
 占筮は不要である。」


私(語り手の北澤正誠実氏)曰く:
「確かにそのとおりです。しかし、物事は
 決め付けてはならないと言います。
 今回のことは大事の場合です。
 易にぜひ、問いかけてください」


とうとう象山先生が筮を立て
得た卦は「沢天夬」の上爻でした。


卦辞:
「夬は、王庭に揚(あ)ぐ。
 孚(まこと)ありて号(さけ)び
 あやうきことあり。」


上爻の爻辞: 
「号(さけ)ぶことなかれ。
 ついに凶あり。」



象山先生曰く:
「夬の卦は凶だ。しかし、既に約束をした。
 今は内外多難の国事に挺身すべきだ。
 慎重さを心するほかはしようがない」


そう言って直ちに出立の準備を整えた。
馬の用意だけが間に合わなかったところへ
たまたま、木曽の馬商人が訪れた。
先生は素晴らしい駿馬を見つけ
喜んで高額な値を払い、手に入れた。



     ☆


【佐久間象山、駿馬を得る】


手に入れた馬は
佐久間象山の意にかなった
素晴らしい駿馬だった。
馬の名前は“都路(みやこじ)”
都へ上る門出として
先生が自らつけた名前である。


先生は愛馬“都路”に跨り
美濃大垣に到着。
良友の戸田藩老である
小原仁兵衛氏の邸に立ち寄った。


小原仁兵衛氏が先生の上京を祝い
世事の話になり、
談論風発、すこぶる親密であった。


小原氏が先生に問う:
「先生は今、状況の途中ですが
今回の易は何の卦でしたか?」


先生曰く:
「沢天夬の上爻です」


それを聞いた小原氏は
天を見上げ嘆息し
胸中を察する所があるがごとく
再び大きいため息をつき黙した。



     ☆


【佐久間象山、愛馬の名を“王庭”と改める】


翌朝、佐久間象山先生は
小原仁兵衛氏に別れを告げ京都へ。
都では、公家や貴族の皆々が
先生の名を聞くと直ちに賓客として
礼を尽くして厚くもてなした。


ある日、中川ノ宮が先生を召した。
先生は中川ノ宮に、欧州の形勢や
文武の整備を語っているうちに
騎兵についての事に話が及んだ。


酒席、まさにたけなわとなり
先生は西洋馬具が軽便なことを
中川ノ宮に知って欲しくなり
愛馬“都路”を庭前に牽かせた。


その庭前にて、象山先生が自ら
西洋式の馬術を見事に演じた。
中川ノ宮は大いに喜び賞賛して
さらに親しく酒盃を賜った。


象山先生は感激して曰く:
「私は卑賤より出でし者。
 殿下の寵遇をかたじけなく思います。
 この喜び、人生の栄誉として
 これに変わるものがありましょうか。
 
 今、貴庭において馬術を演じ
 鑑賞をしていただきました。
 記念として愛馬の名“都路”を改め
 “王庭”と名づけます



※愛馬の名前に注目!!



【佐久間象山
愛馬“王庭”の馬上にて斃(たお)る】




厚く幾度もお礼をのべながら
象山先生は中川ノ宮邸を辞した。
名が改まったばかりの愛馬“王庭”に
跨り、帰途についた。


三条木屋町筋に至ったその時、突然
待ち伏せしていた尊攘派浪士達が現れ
象山先生を取り囲み、襲った。


1864.7.11
佐久間象山先生、馬上にて斃る。
享年54歳。


私(語り手の北澤正誠・外務省書記官)は
藩邸にいて、その訃報を聞いた。


後、佐久間家は断絶。



「沢天夬」卦辞:
夬は、王庭に揚(あ)ぐ。
孚(まこと)ありて号(さけ)び
あやうきことあり。」


          終わり

よろしければ応援の↓クリック↓を~(^^)
          


【幕末維新の人物-佐久間象山 プロフィール】

佐久間 象山(さくま しょうざん)
〔文化8年2月28日(1811.3.22)-元治元年7月11日(1864.8.12) 〕

 幕末期の兵法家・思想家。松代藩(長野県)下級武士、佐久間一学(父)荒井六兵衛
の娘まん(母)の子として生まれる。通称:啓之助、修理。雅号:象山、子明。
若年期、家老鎌原(かんばら)桐山から儒学を、町田源左衛門から和算を学んだ。

 天保4(1833)年江戸に出て、当時儒学の第一人者である佐藤一斎に朱子学を学び、
梁川星巌と親しく交わった。天保7(1836)年松代藩へ帰藩するが、天保10(1839)年
再度、江戸に出てきて、神田お玉が池の梁川星巌宅の隣に開塾する。

 天保13(1842)年松代藩主真田幸貫が海防掛老中になると、顧問として海外事情の
研究を命じられ、海防問題を研究する。伊豆韮山代官江川坦庵(太郎左衛門)に西洋
兵学を学び、また藩主に「海防八策」を提出した。

 嘉永3(1850)年、深川藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、
河井継之助ら、多くの有能な人材を門下に集めた。ちなみに、象山の妻は勝海舟の
妹順子である。

 翌、安政元(1854)年4月、門下生吉田松陰のアメリカ密航失敗事件に連座して捕ら
えられ、9月国元の松代に蟄居を命じられた。44歳から52歳までの働き盛りの丸8年間
を松代でおくった。その間も西洋研究に没頭し、大砲製造、地震予知、電池の製作、
電信実験などを成功させた。

 文久2(1861)年に赦免され、元治元(1864)年3月将軍・徳川家茂に招かれ京に上り、
公武合体論と開国進取論の立場から皇族、公卿、諸侯の間を奔走した。
 しかし、孝明天皇の彦根動座を画策したことが原因となり、7月11日三条木屋町筋
において尊攘派河上彦斎らの手により暗殺された。
 時に54歳。その後佐久間家は断絶となった。
 《参考-京都大学付属図書館維新資料データベース》






© Rakuten Group, Inc.
X