凶となった状況を転じるには? 【後編】易経が教える兆し~手にとるようにわかる面白い易経
凶となった状況を転じるには? 【後編】※凶となった状況を転じるには? 【前編】 ~吉と凶の分かれ目 の続きです。【亞】の玉手箱時代の復刻版です。「 凶となった状況を転じるには? 【後編】」 ☆ 易経が教える兆し ☆ 【人は事の重大さに、自らが恐れ震えなければ、後悔をしないものです】 ★ 吉凶の分かれ目は 悔(かい)・吝(りん)にあります。分かれ目というのは、これまでの過失を過失として認め、潔く方向転換すれば(悔)→吉になり、それが出来なければ(吝)→凶になるということです。「 悔・吝の分かれ目は 萌芽のときの処置にある」 「吝」の状態が続くと、ものごとを観る目、兆しを察する洞察力は鈍ってきます。そしてある日突然、窮地(凶)に陥ります。 あらわれる現象は 突然のようにみえますが、実際はその前に何度も警告が発せられていたはずなのです。赤信号の交差点を平気で渡ってしまうようなもので、それを毎回続けていたら、必ず事故にあって痛い思いをし、苦しむことになって後悔します。そのような危機的事態は、一見突発的な現象に見えます。 が、実は赤信号になる前に青信号が黄色に変わったり、青が点滅して赤信号へと変わるように、何度も何度も警告の兆しを、必ず発信しているのです。例えば、失敗したとき、辛くて嫌な思いをしたとき、物事がチグハグになるとき、病気や事故にあったとき、隠していることがバレそうになったとき、あと味の悪い気分になったとき。・・・などなど、不自然な状態のときです。私たちはその警告を見逃してしまうことが多く、またたとえ気づいても、無視しつづけたり、耳を貸さなかったりして、ついには赤信号を渡ってしまうのです。傲り高ぶりは自分本位の思い込みとなって、洞察力を衰退させます。次に、吉に変化する「悔」について考えてみましょう。「震(うご)きて咎(とが)なきものは悔に存す。」 (易経・繋辞上伝) 咎(とが)なきという言葉が出てきます。咎とは災難の意味です。咎という言葉が出ているのは、咎められるべき過失があるということです。それなのに、咎がなくなるのは、過失を補うからです。震(うご)きて咎なきというのは、動くと災難がなくなるという意味です。この‘震き’というのは心が震(ふる)い動くことです。大抵の人は過ちを「大したことではない」と認めないものですが、それを背筋に冷たいものが走るくらいに感じた時、背筋が寒くなるような思いをした時にはじめて方向転換ができるのです。 この、 ※ 背筋に冷たいものが走るくらいに感じる ※ 背筋が寒くなるような思いをする ということが、【 恐れ震える→感受性 】なのです。人は事の重大さに、自らが恐れ震えなければ、後悔をしないものです。そして、過失を痛切に悔いることが、失敗を免(まぬが)れて 吉に向かわせるのです。 【 禍を転じて福となす 】 禍(わざわい)を福(さいわい)に転じることも易経が教える処世の智恵です。単に禍を避けられるということだけでなく、何が禍の発端であったかを認識し、どのように判断して進んでいくのかをよく思案することが大切です。自分の心と行動を、吉・凶・悔・吝に照らし合わせ、「これでいいのか」と繰り返し省みるうちに、進むべき道を知ることができると易経に書かれています。 そう考えると、自分にとって嫌いな人や苦手な人も、気づかせてくれるきっかけであり、プレゼントのように見えてきませんか?※今回のブログ削除事件は、 【亞】にとっては凶事でなく、 プレゼントのように見えてきました。 わ~~~い! 感謝だい!!(^^v