僕らは出会った1987年7月1日、上映会は大成功だった。立ち見客がでるほどだった。 その夜、宮田監督を囲んでの懇親会終了後、監督から、「今夏、ネイティブ・アメリカンを日本に呼んで、各地でイベントをもちたいが、東北でもやってもらえないか」との、打診を受けた。 願ってもないことだった。 ネイティブ達に会いたい、会いたい・・・! この思いは、私の胸の中で、はち切れんばかりに膨れ上がっていた矢先のことであった。 1987年8月30日、 「母なる大地と命のための東北集会」と銘打って、花巻市郊外の山中にある「綿帽子農場」で、宮田監督一行を迎えた。 そして私は、アメリカインディアンと会った。 彼は、ディネ族の青年で、名前をバヒ・キャダニーといった。 175cm前後の背丈で、がっしりとした体格をしていた。 来日して1ヶ月ほどたっており、疲れもあるからと治療を頼まれた。 片言の英語で挨拶を交わし、治療に取りかかった。 触診すると、首、肩、背部の筋緊張が目立つ。異境の地での精神的疲労が強いのであろう。診察を終え、はり治療に取りかかった。 腕、足、腹にと治療を進めているとき、バヒが語りかけてきた。通訳してもらうと、 「お前は何をしているんだ。これが鍼治療なのか?俺が知っている鍼は、もっと痛かったが、何も痛くなくて、それなのに呼吸が楽にできる。こんな深い呼吸ができるなんて久しぶりだよ。身体の緊張がとれ、気分が落ち着いてきた。」とのことだった。 治療を終え、感想を聞こうとしたら寝息が聞こえた。 宮田監督が小声で言った。 「このまま、少し休ませて下さい。」と。無論、私も同意した。 9月1日に、再度鍼治療をした。そして、一行を送り出した。 バヒは、その後北海道を回り、9月15日に日本を離れた。 ジャンル別一覧
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