|
カテゴリ:心のふるさと保育園
今日は涙を何回流しただろうか・・・ しまいには涙腺が緩みっぱなしでフルハウスの出産シーンだけでもほろり・・・だめだこりゃ・・・ 朝から保育園の母ちゃんと電話で話していて、来週から仕事の彼女とランチに行こうとなりました。待ち合わせ場所に15分ほど前についた私は本を読んでいました。 すると、メールが入り先月茨城に引っ越したお友達が保育園を求めて再び熊本に戻ってくることが判明!ブログに書かれた文章を読みながら涙があふれた。
一生懸命新しい土地になじもうと努力した彼女、でも、子どもの一番大事な時期を過ごさせることに抵抗を感じ、また、これまでの保育園Y園のすばらしさを再確認した様子。何も考えずに戻る人ではないのできっとありとあらゆる選択肢の中からパートナーと自分の思いをまっすぐにぶつけ合いながら決めたように思えて、また、ここまでY園のすばらしさを気づけることになにやら感動してしまった。 きっと今の園を心のふるさとと呼ぶには抵抗があったのだろう・・・
久しぶりのお化粧がくずれながらもランチを楽しむことに気分転換・・・
と、思いきや・・・1女と同じクラスだった子が小学校で意地悪をされていると言う。何もしていないのに叩かれたり、体育の授業の間中足を踏まれていたりしているそうだ。でも、彼は意味もないのにやり返したりはできない・・・と、言っていると言う。決して、小さくも弱くもない彼、でも、人がされたらいやなことを知っている。彼の選択肢にやり返すことはなかった。ふと、叩いてくるお友達、変な言いがかりをつける子にかわいそうだと涙をこぼした少し前の卒園生のことを思った。
また涙があふれてきた。
自分の子だったらどちらに育ってほしいだろうか・・・ 何かいやな事があったときに誰かに当たったり誰かを傷つけたりする子。 自分がつらくても相手を思いやれる子。
そんなの後者に決まっている。じゃあ私はどこまで喧嘩をさせられるだろう?大事な時期にどれだけうそをつくこと、文句を言ったりすることを見守ることが出来るだろう?どんなに小さくてもうそはだめ、バカって言わないなんて言ってしまっている。
我慢が出来なくて言葉が出ない間は手が出る。言葉が出始めたらそれを言葉でする。その間はまだ、相手の気持ちなんてわからない。まだ、自分を守ろることすら出来ないのに相手の気持ちなんて言って聞かせてもわかりはしない。そこで、自分を肯定してもらい。初めて相手のことを思いやれる。自分のことを置いといてお友達を応援できたり、容姿で人の判断をすることがどんなにおろかなととなのかを知る。 その過程をすべて通ってきた彼、うちの1女、今いる世界はどんなに意味のわからない世界に見えるだろう。でも、何が大事なのかをあの子達は知っている。自分が大事な存在で傷つけるに値しない人間だということを知っている。そして、どんなことをする人も大切に育てられるべき人間だということを知っている。 1女がお友達に大嫌いというお手紙をもらったとき、1女は犯人探しをしてくれと言った。なぜか理由を尋ねると、早くいいよって言ってあげたい。きっと書いた子はドキドキしているからと言った。 自分が傷つけられて相手を思いやれる大人を私は30年間生きてきてほんの数人しか知らない。でも、1女のともに育った仲間はそういう人間だ。
人生なにが幸せかなんてわからない。今、この時期だけを見て可愛そうだなどと判断することは明らかにおかしい。 私がかつて公務員だったとき、職業を聞かれ公務員だと答えると、決まって、よかね~と言う言葉が返ってくる。なにがいいの?安定しているから?私の苦しさを考えずに言われる言葉に、いつも戸惑いを感じていた。仕事を辞めるときに・・・あなたは絶対後悔する。もったいない、と、何度言われただろう。何を後悔するんですか?なにがもったいないんですか?私はよく、ころころ変わる市長のもと、たくさんのいろんな人間の市民のために自分の人生と時間を費やすことが出来るものだと、そんな人のほうがよっぽどかわいそうだと思えてならなかった。 Y園の先生達を見たとき、誰かが一人でも給料が少ないことに仕事を制限したり時間を制限したりしている人を見たことがない。誰もが口をそろえて子どもの笑顔のためなら・・・と笑顔を見せる。その差は何か?自分が何で笑顔になれるのかを知っているからだと思う。先生達だってあ~今月つらいな~なんて思うこともあると思う。でも、自分が本当に笑顔に幸せな気持ちになれるすべを知っている。知らない人はいちおお金とか安定とかで自分を満足させようとする 昔、なんでも先生の言うとおりに出来た子が育児ノイローゼになったり、きれいだった子が変な男にはまっていたり・・・一番怖いのは自分を持っていないことだ。どんな自分でもいい。自分の心の声を聞くことが出来るのは人生において一番重要なことではないか? 子どもはまともに育ちたがっている。そう園長先生は言われた。まともの定義はなんだろう?それは、まともかどうか?自分に問えることではないか?これはしていいことなのか?してはいけないことなのか?そんな判断を自分が下せることではないか?
子ども達は私なんかよりずっと大人でずっとえらい。
1女とともにY園を巣立った子ども達は今いろんな自分を存分に楽しんでいる。すぐにお友達ができる子もいれば1女見たいにゆっくり進んでいる子もいる。その一人一人がいろんな風に感じいろんな捉え方が出来ることがその子自身の心を育てられた証ではないか?と、思えてならない。
今日1女が歌っていた・・・(アメージンググレースに先生が詩をつけたもの発表会で歌った) 空を見上げた涙をこらえて、そらは笑っていった 雲かかる日も雨降る日も はるかなはるかな本当の空は・・・ いつも僕たちが輝いていると・・・ 僕も心の奥に住んでる本当の僕を見つめて 本当の愛だけ信じていこう・・・本当の愛だけ信じて・・・
難しい歌をたくさん歌ってきた6年間その心に刻まれた歌がつらいときに悲しいときに自分を助けてくれる。それを歌うとき、友達を思い出し、先生を思い出し、家族を思い、そして自分を見つけ出す。 心は流れるように柔軟に周りを包みまた一回り大きくなる
きっとこれから誰かが傷ついたときに手を差し伸べられる心に育つための今の大きな階段。見ている私はつらいけれど何度も挑戦してほしい。超えられる人の前にしかその階段は現れないから・・・
そんなこともあって夕方また別の母ちゃんと電話で話していたときもいろんなことを話し合ってウルウルしてしまった。明日はなせばいいのだけれどつい・・・ また、明日のことは明日・・・
もう、こんな一日のおかげでご飯を食べながら見たフルハウスでの双子の出産シーンに涙、家族ってステキなんて感情に浸っていると、溜まっていた洗濯物に・・・ お前一日なんしおったと?の一言・・・ 今日は感動の連続で・・・ 洗濯機はまわせるど? 涙で見えなくて・・・ しーん・・・
私には心の声より現実を見る目が必要なようです・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[心のふるさと保育園] カテゴリの最新記事
|