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「平成最後の~~」というフレーズは、いささか食傷気味だ。
どちらかというと、元号反対論者である。書類に年月日を入れる場合は、極力西暦を使用する。平成・昭和・大正などと最初から三択になっていて選ぶ場合は、おとなしく○を付けるのだから、決して過激な反対論者というわけではない。 「平成」とはどういう時代だったのか、をテレビや新聞が盛んに取り上げるが、それはバブル崩壊以降の「失われた20年と震災後」はどうだったのか、というのと同じ話だ。元号が社会を作るはずもなく、社会が元号を作るのだから。 しかし、自分の人生が三つの元号に渡ることなど、想像もしていなかった。「昭和」生まれというのは、そのうち自分が子供のころ抱いていた「明治」という大昔のイメージで見られることになるのだろうと思う。 「昭和なんてスマホもなかったんだって」 「いや、それどころかテレビだって最初はなかったんだよ」 「それから、みんな現金を財布に入れていたみたいだね」 などということに、どうもなりそうな感じだ。 新しい元号がどうなるかについては、まったく興味がない。昭和は西暦から25を引く。平成は西暦に12を足す。新しい元号は西暦から18を引く。面倒だが、元号換算が必要な時は、そうするほかないが、覚えていられそうもない。しかも、西暦年の途中で元号は変わるから、今でも昭和元年は何月から始まったのかもわからないし、平成元年も確か1月だったように記憶するが、不確かである。 なぜ、こんな面倒な習慣を残しておきたいのか、理解に苦しむ。「万世一系」などということは誰も本当だとは思っていないが、皇国何年の方がまだましだ。天皇が「国民統合の象徴」というなら、元号は要らないのではないだろうか。 もちろん、この現憲法の天皇の規定に、決して反対ではない。「元首」とすべきではないと思うが、かといって天皇制廃止論にも与しない。 現在の天皇は、平和な時代を象徴する天皇だった。立派な人間だと思う。自分の仕事に自分なりの意味付けをして、倦まずたゆまず果たし続けた。他の時代は分からないが、おそらく稀に見る素晴らしい人格の天皇であったという評価が定着するだろう。 しかし、それと元号とはまったく別次元の話である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.01.02 07:00:12
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