カテゴリ:評論
消費によって手軽に得られる全能感を己の人格の核としてしまった人間は、その正反対の感情、己の力の不足を痛感させられる労働は耐え難い。だから、三か月で辞めてしまう。
もちろん、これはややデフォルメされた一部の人の話であり、多くの人は次第に消費の全能感を断念する方向へと向かう。だが、それは強烈なノスタルジーとして、その人の中にくすぶり続ける。 そういう中で、新自由主義による労働の変質という事態が、今生じている。このことについては、改めて別の項で論じるつもりだが、典型的なのは「派遣」というここ十年ほどで定着した労働形態だ。 派遣労働者は、派遣先の職場の社員ではない。つまり、正規の社員とは違う。にもかかわらず、賃金格差があることが今は問題化しているが、それは問題の本質ではないと思う。「派遣」は、一定期間後そこからいなくなることが最初から分かっているから、職場の人間関係から自由である。また、職業的技能を磨くことを期待されていない。もともと、今の手持ちの技能で勤まるところにしか派遣されないのだ。 もし、その職場が嫌になれば、すぐに辞められる。その場合でも、派遣の登録は抹消されない。失業給付期間が終わったころ、また別の職場に派遣される。また、派遣会社はすぐ別の人間を派遣するので、彼が辞めても仕事が滞ることはない。 つまり、労働に必要な人間的諸力、忍耐力とコミュニケーション能力がかなり低くても、派遣労働なら可能なのだ。 また、派遣労働において最大の問題と思われるのが、賃金であることも、隠された意味を持っている。彼らは、単にカネを得るために労働しているからこそ、賃金の低さだけが問題として意識されるのだ。 誤解ないように言っておくが、現政府の働き方改革法案の中の同一賃金同一労働という考え方には、筆者は賛成である。同じ仕事なら、派遣と正社員は同じ賃金であるべきだ。ただ、ほとんどの場合、労働の質は大きく違う。 しかし、そもそも働くということは、「社会やその中の誰かに役立つ」ことではなかったのか。それこそが労働の本質であり、だからこそ「職業に貴賤なし」だったのではないのか。 今の労働はカネを得るための手段という意味しか持っていない。だから、なるべく面倒な手間は避けたいのだ。例えばテレワークなら、在宅で与えられた分量をこなせばいい。別にスーツ姿も必要ないし、仕事をするのが夜中でも昼間でも構わない。 つまり、仕事から「社会性」が欠落したのである。どれだけカネを稼げるかが、仕事を計る唯一の価値の指標になってしまった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.04.06 07:00:35
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