カテゴリ:仕事
前回書いた、生徒に提示した自分の文章。
【1】筆者の言う「グローバリゼーションとナショナリズムの共犯関係」とはどのようなことか、分かりやすく説明せよ。
筆者はナショナリズムとグローバリゼーションとが、まず共通の地盤に基づき、次に相補的に高め合う関係である、と述べている。ここまでのところでは「共犯関係」という、非常に強い批判を込めたメッセージは読み取れない。 その主張は、両者の違い、つまり「ナショナル」には主権があるが、「グローバル」にはいかなる主権もない、という前提から始まる。グローバリゼーションは、より安い賃金を求めて世界中に工場、農場などを作り、その結果、国内の産業は衰退して、労働者は職を失うか、外国並みの低賃金に甘んじるほかなくなる。つまり、グローバリゼーションが推進されれば、必然的に人々の間に富の格差を生む経済システムが生まれる。そして、それを止められるのは国家主権の発動によるしかない。例えば、国内の農家を、安価な価格で大量に穀物や肉を輸出しようとする外国の攻勢から守りたければ、国家が大幅な関税をかけて、市場価格競争で国内産が勝負できるようにするほかない。その時、両者は明確に対立するはずなのだが、現在の政治状況はそうはなっていない。 つまり、国家は国民に富を再分配すること、先の例で言えば関税障壁を作る一方で、国内の農業に莫大な補助金を出すことで、農業の貧困を救うというような政策はとらない。仮にとったとしても、その政策の原資は国家予算であり、それは結局、法人税、所得税などの税金である。その規模を大きくするためには、国際競争力を高め、最先端企業や富裕層からの税を増やさなければならないが、それはグローバリゼーションを推し進めることで初めて可能になる。こうして「国際経済競争で勝つ」というナショナリズムが、特に新自由主義を掲げる政権では強く打ち出される。そして、その時点では、衰退する国内産業の保護を諦めざるを得ないのだ。安い外国の農産物を自由化することは、消費者としての国民も大半が支持する政策である。 そのような点で、グローバリゼーションと、それを推進する国家権力のナショナリズムは、共に国内の「格差」の拡大に手を貸し、新たな「貧困」を生むという意味で「共犯関係」と言えるのだ。
【2】 あなたは「グローバリゼーション」についてどう考えるか、自由に論じなさい。
筆者が「グローバリズム」と言わず、一貫して「グローバリゼーション」という呼称を使うのは、それが今や実現すべき理想を掲げた「思想」ではなく、今すでに起こってしまった「状況」であるからだ。企業は多国籍化しなければ国際競争に勝ち残れないのは、近年、日本の家電メーカーなどのものづくり企業が、次々に外国資本に吸収されていった事態が示すとおりだ。 その一方、「ナショナライゼーション」は、日本で言えば明治や戦前の「状況」であり、今はスポーツ観戦などで日の丸の旗をふるシーンにかろうじて見られる程度に後退している。もし、グローバリゼーションに対して「ナショナライゼーション」の状況を取り戻そうとするなら、それは強烈な「ナショナリズム」という思想によるほかなく、その思想は時代錯誤にならざるをえない。「皇国日本」をスローガンとする右翼思想がその代表であるが、彼らの思想を喧伝するSNSなどの媒体自体が、実はすでにグローバリゼーションの結果もたらされたものであることを考えれば、思想としての「ナショナリズム」はもはやその有効性を失っていると言えるだろう。 「グローバリゼーション」は確かに格差社会の最大の原因であり、その格差は憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」をすら脅かしつつある。しかし、その一方でグローバリゼーションのさらなる発展に期待を寄せる動きもあり、「環境問題」「人口問題」などの世界が抱える人類の生存に関わる問題はグローバルな解決が求められている。最近のSDGs(「持続可能な開発目標」)などの概念は、グローバリゼーションをプラスの方向に発展させようとするものだ。 格差を生む根本原因としての「グローバリゼーション」は、すでに与えられた「状況」であり、それを否定することはもはやできない。この、いわば、後戻りの出来ない状況において、我々は生存権さえ脅かされかねない格差社会を生きなければならない。そして、その中でなし得るのは、B.I.(ベーシックインカム)等の政策によって憲法が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」を確保する社会福祉の新しい仕組みを、一日も早く構築することだ。そして、その上で、個人としては自らの価値観に従い、必ずしも経済が最優先でない人生を模索するべきである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.05.08 06:01:57
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