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セミリアイア「晩年」日記

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2022.12.09
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カテゴリ:評論
生徒に何か書かせる場合、自分は極力、自分も同じテーマで書いて、それを提示する。何かを書かせる場合、自分の思考、論考の地点がどこにあるのか、ということを示さずに批評、採点することは卑怯だと思うからだ。今回は『山月記』という大教材の仕上げとしての課題、「李徴はなぜ虎になったのか」について書け、に対する今の自分の思考の地点を示すために書いた。少し長いので、2回に分けて掲載する。



​李徴の「悲劇」(1)


 「李徴はなぜ虎となったのか」という問いが、『山月記』という作品の真髄に関わるとすれば、李徴を虎としなかった場合にこの作品がどう書かれるのかを考えることは、その問いに答えるための一つの出発点となるかもしれない。

 物語は、袁傪が虎ではなく、半狂人となった李徴に出会うところから始まることになる。李徴は己の姿を隠すことなく、詩への執着を語り、自分の詩の原稿を袁傪に託し、さらに即興の詩まで作ってみせる。さらに、自分がなぜ詩人として成功できなかったのかを語り始める。それは、李徴を狷介な鼻持ちならない人間として、関わりを避けていた周囲の人々が、窺い知ることの出来なかった李徴の内面のドラマだ。「臆病な自尊心」、「尊大な羞恥心」のドラマである。

 こう書いていくと、それはそれで、ドラマ性もあり、作品として十分成立するのではないかと思えてくる。

 しかし、後半部の展開は大きく違うものにならざるを得ないだろう。袁傪は李徴を連れて、長安に帰ったかもしれない。李徴は、その後、己の詩の足らざるところを知り、再び詩人を目指そうとしたかもしれない。そういうふうに、このドラマが完結することも可能だ。少なくとも、半狂人の李徴を袁傪が置き去りにするとは考えにくい。

 






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最終更新日  2022.12.09 06:03:25



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