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李徴の「悲劇」(2)
つまり、決定的に違うところは、ストーリーの「悲劇性」なのだ。悲劇の本質は「主人公の滅亡」だが、「人間の心」を次第に失っていく李徴はまさに悲劇中の人物であり、最後に袁傪一行に、虎の声で咆哮してみせる姿は、その「滅亡」、「李徴=人間の死」とも解釈できる。 悲劇とは、自分の力ではどうにもできないものに抗いながらも押し流され、次第に滅亡へと向かうプロセスであり、それは「虎への変身」ということなしには、描ききれなかったのだ。悲劇性とは、自分の滅亡への道程が見えているにもかかわらず、もはやどうにもできないことである。『山月記』においては、虎になってしまった李徴が、むしろその故に人間だったころの己の在り方を完全に理解したにもかかわらず、再び人間に戻ることが不可能だという不可逆性においてしか「悲劇」は成立しない。 しかし、以上のような考察とは別の次元で、李徴の悲劇性をより深く、暗いものにする解釈がある。それは、李徴の詩についての従来とはまったく異なる見方である。その見方とは、袁傪自身が「どこか、非常に微妙な点において、欠けるところがある」と感じた李徴の詩が、もし、同時代には理解されない天才的な詩だったとしたら、という仮定から出発する。 実際、同時代の評価を渇望しながらも得られなかった天才詩人たちは、西欧にも、日本にも、そして中国にも綺羅星のごとく存在した。李徴がその一人であったという仮定は、あながち無理なものとは言えまい。高級官僚である袁傪は、もちろん詩への造詣も深く、一流の鑑賞家ではあったが、卓越した鑑賞家ではなかった。彼が「(非常に微妙な点において)欠けるところがある」と漠然と感じたものは、実は、時代を超えた李徴の詩に対するかすかな違和感だったということもあり得る話だ。 そして、他者の評価を渇望した李徴自身が、己の「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という内面に、詩人としての失敗の理由を求めてしまうという「悲劇」が、「虎への変身」を契機として成立するのである。李徴自身が、己の才能を同時代の他者の評価に委ねてしまったために、己の天才的作品を足らざるものと思い、その原因を「進んで師に就き、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めなかった」などという陳腐な教訓的モラルに求めてしまうという悲劇。そして最初に述べたように、その地点から滅亡へと進む過程に抗う力を李徴は持ち得ないという悲劇。 『山月記』という物語を、己の天才を他者の評価に委ねてしまったために、努力の不足や家族より詩を優先した冷酷さ、などというあまりに「人間的な」ことに己の詩人としての失敗の原因を求めてしまい、その思考の地点から引き返すことができず、しかもその思考すら徐々に喪失していき、やがて滅んでしまう李徴の悲劇と読めば、その闇はなおいっそう深く、かつ暗い。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.12.10 04:45:28
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