カテゴリ:哲学論考
本論考の最後に、自分が与している人間論でもある「ホモルーデンス(遊戯人)」と「演劇的人間」について書いておきたい。
「ホモルーデンス」はホイジンガーの人間論である。「遊び」は文化に先行しており、人間の生み出したあらゆる文化は「遊び」から生まれた、という彼の主張は現代の消費文化を見ても、十分に納得できるだろう。なぜ、我々は十分に食べられる生活だけでは満足できないのか。場合によっては、食べることを我慢してまで、趣味にお金を使うのか。それが、我々の本質であるという彼の思想は、いわば「労働」と「遊び」の価値の転倒である。 最近、よく言われる「ワーク・ライフ・バランス」というのは、仕事と遊びの両立のことだと考えると、了解しやすい。 ホイジンガーは遊びの形式的特徴を次のように列挙している。 ① 自由な行為である ② 仮構の世界である ③ 場所的時間的限定性をもつ ④ 秩序を創造する ⑤ 秘密をもつ さらに、さらに遊びの機能的特徴として「戦い(闘技)」と「演技」を挙げる。そう考えると、人間のやっているありとあらゆることが、「遊び」であると分かる。スポーツや芸術だけでなく、政治も戦争も労働も、すべて遊びなのだと言えそうだ。 しかし、ホイジンガーは指摘していないが、もっと重要なのは、「遊び」は「他者」を必要とする、ということだ。たとえ、その他者がSNSの向こうにいる不特定の「他者」だとしてもだ。もちろん、そういう他者としか遊べないのは、不幸だ。SNSの向こう側の見知らぬ他者と、常識外れなほど親密になったり、つまらない諍いを起こしたりするのは、「現実の他者」との関わりが希薄な「無縁社会」の悲喜劇である。 そして、そういうバーチャルな他者に対してであれ、現実の顔の見える他者に対してであれ、我々は「素顔」ではなく何らかの「仮面」をつけて対峙している。仕事や家庭での役割も「仮面」のバリエーションの一つと言っていい。 山崎正和は、現代人を「演劇的人間」と評したが、自分もそう考える。仕事や趣味での他者とのやりとりは、いわば「台詞」であり、しかも即興性の高い「アドリブ」であればあるほど、満足感が大きいといっていい。コンビニやファストフード店でのやりとりは紋切り型であり、まったく楽しくない。そうではない「他者」とのやりとりを楽しむことが、単に食べるためにではなく「生きる」ということだろう。 家族や友人、趣味の仲間、生徒、同僚。自分の場合は、そういう「他者」とのやりとりこそ、最も面白いものであり、「生」の実感を得られるものだ。だから、なるべくそういう人たちと、ずっと「仲良く」やっていきたいと心底思っている。 この項、了。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.03.13 06:51:58
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