カテゴリ:哲学論考
『反時代的考察』はニーチェの『音楽の精神からの悲劇の誕生』に続く著作で、『悲劇の誕生』で古典文献学の世界から異端視されたニーチェは、『反時代的考察』によって、その世界から追われた。バーゼル大学の教授を辞したニーチェが、独自の思想を形成する契機となった作品である。
久しぶりの「哲学論考」のカテゴリーだが、今や、時代が自分を追い越していくような気分の中で、さまざまな視点から、「反時代的」考察をしてみたい。 2000年を一つの境にすると思うのだが、現代人は「現代」という時代の中で、「時代に抗う」という意識を失っていったのではないと思う節がある。 自分の乏しい人生経験から言うと、子どもたちが変わった。教師は一個の権威であり、権威であるが故に、無茶な要求をし、それに従わない者を面罵する。自分の子ども時代は、まさにそういう時代で、権威に従順になるか、徹底的に抗うかの二者択一しかなかった。自分は、十分、学校で不条理な目に遭ってきたが、ある時、先生というものは、成績さえ良ければ、大抵のことには目をつぶってくれるのだ、と気づいた。小学3年、たまたま、何かのテストで100点を初めて取った時だったように記憶している。それで、自分は第三の道、「面従腹背」という生き方を学んだ。子細に観察すると、先生はそれほど勉強していない。いや、自分もしていたわけではないが、国語の教科書なら渡されたその日に、暇潰しに全部読んだし、他の科目も似たようなものだった。ところが、先生はちゃんと予習してきていない。「こんな子どもの勉強をろくにできないんだから、先生っていうのは、威張っているけどクズだ」と言語化できたわけではないが、そういう気分で生きていた。 今の子どもたちは、そういう気配もなくただ「従順」である。ただ、子どもも保護者も、教育サービスの消費者として容赦ないクレームはつける。しかし、クレームの対象外の教師には、非常に礼儀正しいし、友好的だ。ある種の「価値観」を教えることもある。例えばグローバリゼーションは、結局「格差」を生み出す構造になっているということは、社会科学の定説ではなく、一つの仮説にすぎないのだが、自分もそう考えるので、そう教える。10年以上、ずっとそう教えてきたが、誰もそのことに関してクレームをつけない。 クレームがつかないのは、多分、自分の授業がレベルが高いのだが、面白いし、必死にやればいい成績が取れるからだ。政治的には大論争になるようなことなのだが、内容について誰も何も言わない。教科書の文章の筆者もそういう考えである。それに沿って教えているからかもしれない。が、一昔前なら「グローバリゼーション」は双手を挙げて歓迎すべきことなのに、それがナショナリズムと「共犯」して、格差を生み、それを放置するなどと言えば、文句の一つも出そうなものじゃないかと思う。 もう一つの理由は生徒の内面に踏み込まないからだ。自分も、教師というチンケな権威の一人なのだが、権力を振りかざすことはない。いや、「オレは権力あるからね。授業を壊すヤツは、絶対許さないからね」くらいのことは言う。しかし、そう言って「脅す」までもなく、生徒は従順だ。 恐らく、「時代に抗う」という生き方の典型を、知らない。あるいは、そういう生き方は、ダサくてウザい、と思っているのかもしれない。 (この項、気が向いたら続ける) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.05.24 04:46:27
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