カテゴリ:哲学論考
「鬼ごっこ」は、社会からの逸脱と社会への復帰を繰り返す遊びだということは、よく言われる言説であるが、それに先立つ「いない、いない、ばあ」は、より根源的な、存在の隠匿と顕現を繰り返す遊びだ。
あるところに「存在」する人間やモノは、別の所には存在しない。しかし、今、ここにいる人間やモノが、今、ここに存在しない、という世界を我々は、生きている。電車で乗り合わせた乗客は、今、「電車内存在」としてあるにもかかわらず、スマホをいじっている彼はSNSの世界に、「存在」していて、「電車ー内ー存在」ではない。彼が、スマホから目を上げ、乗客を眺め回すとき、彼は今、ここに存在することへと復帰する。 昨日、1歳4ヶ月の孫3号と、初めて遊んだ。孫3号が、もらった小さなANAの木製飛行機を、自分が孫3号の目の前で、タオルケットの下に隠す。「どこかな、どこかな?」と言うと、まったくそうは聞こえないのだが、孫3号はその言葉を繰り返し、タオルケットをめくり、発見する。「あったー」と自分が言うと、「あたー」と言って、自分の所に持ってくる。そして「どかな、こかな~」などと言い、もう一度隠すことを要求する。それを今度は、手の届くハンガーラックのポロシャツのポケットに隠す。「ない、ない」と言いながら、「どかな、かな~」などと言って、ポケットに手を突っ込み、取り出し、満面の笑みを浮かべ、「あた」と言って、もってくる。 そんな単純な遊びを、のべで1時間もやった。彼女が体験したのは、目の前のモノが突然、隠され、非在となり、それを探し出して、再び存在へと顕現することだ。 誰かが亡くなると、初盆や3回忌など、折にに触れて、我々は故人を再び存在へと顕現する。それが、我々の生活では、日常ではなく、非日常的行為として特徴付けられるのは、存在していたものをなくし、しかし、再びそれを想起することで顕現させる行為だからだ。 などと、「哲学論考」っぽく書いたのだが、昨日は朝になっても熱があった孫1号を病院に連れて行き、結局風邪という診断だったが、外遊びは禁止。一人遊びができる孫1号とは、時々トランプをしてページワンや51を教え、孫3号とはそういう遊びをした、という話である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.08.12 06:13:47
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