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セミリアイア「晩年」日記

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2023.10.07
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カテゴリ:評論
​​「個人」が生まれてくるのは、「家庭」の中である、という当然の前提が、揺らいできていることは、自分が少し関わりを持つ2歳までの乳児を預かる福祉施設をみると実感できる。親の育児放棄等、さまざまな理由で赤ちゃんがここで育てられる。少子化、高齢化が進む地方都市の中で、その数はむしろ微増している。

しかし、ここで育つ赤ちゃんは、
そこに至る前の壊れかけた家庭で育つよりは、ひょっとしたらまだ幸福なのかもしれない。そう思わされるような酷い虐待事件が時々ニュースになるからだ。そして、そういう壊れかけた家庭のほとんどは「世間」という緩衝地帯にはいない。直接、社会に晒されている。「壊れかけた」と書いたが、正確ではないかもしれない。以前にきちんとしていた家庭としての姿があったわけでもないからだ。むしろ、いわゆる「アンダーグランド」と呼ばれる新たな下層が形成する家庭は、末成りの植物のような脆さ、危うさからスタートしている。

なぜ、そんなことになっているのか。我々が「世間」を失ってしまったからだ。「家庭」を支える地縁・血縁共同体は消滅しかかっている。仮にそういうものの残滓があったとしても、強欲資本主義が招く差別と分断の社会の前では、無力だろう。仕事を世話してくれるお節介な叔父さんもいないし、親や兄弟姉妹ですら、自分たちの生活を守るのに精一杯で、末成りの家庭に肥料を与えることはできないのだ。

かくして、日本の「個人」は、木田元が言う「原子状」の姿で、社会の中に定位されることになる。今や、「個人」は自分の大きさから見れば、巨大すぎるグローバルな社会を漂う運命にある。

もちろん彼の命を繋ぐのは、「金」しかない。人ひとり生きていくだけの「金」があり、稼げれば、とりあえずヒトとして生きていける。が、そのための仕事が、マニュアル通りであることがずべてのバイトだったり、自分の感情を絶えず偽って接客しなければならない「感情労働」であったりするので、彼らは「職場」という世間に身を置くこともできない。だから彼らはヒトとして生きても、「人間」として生きられない。

そういう彼らが、「社会」に自らを投企するやり方はいろいろある。SNSの中で
「いいね」を獲得することで承認欲求を得ようとする行動、ネトウヨに代表される極端な政治的主張の発信、悲惨な事故に心を痛め、その現場に出向き花を供え、涙する行動、災害が起きればボランティアとして現地に出向いたり、寄付したりして、人と人との「絆」を確認する行動など、それらはみな、「社会」と直接、「緩衝地帯」なしに接続しようとする「個人」の「生き方」だ。だから、それらを否定するつもりは毛頭ない。

だが、彼らの多くは、もし、
時には言い争ったりしながらともに生きる家族や、冗談を言い合って暇を潰す友人や、ちょっとした言葉を交わす近所の知人がいれば、つまり、自分にとってのかりそめではあっても「世間」があれば、事情は大きく違うのではないだろうか。

『柔らかい個人主義の誕生』で山崎正和が書いたことを、今、そういう文脈で読み直すことは可能だろう。多少ともバブルの時代風潮の中で書かれたこの本は、日本的「個」のあり方を、強い「絆」ではなく、その場限りか、長くても数年だけ続く「薄い人間関係」の中に定位しようとしたものだ。そうやって「社会」と直接対峙することを避け、自分の居場所を見つけていく「柔らかい個人主義」。それが、昔から「個人主義者」として生きてきた自分に可能な生き方なのだと思う。





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最終更新日  2023.10.07 05:01:02



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