カテゴリ:哲学論考
こういう文章を書きかけていたのを、危うく忘れるところだった。
演劇的人間 1 演劇的人間 2 先行する文章は上の二つだが、要は、動物が単に己の生を生きるだけなのに比して、人間だけが役割としての生を生きるということを書いた。 別の言い方をすれば、アイデンティティは常に他者との関係の中で生まれ、変化していくということなのだろう。 それは、他者との関係の断たれた人間は、アイデンティティを持ちようがなくなるということでもある。他者との擬似的な関係でしかないSNSという世界でしか、生きられない者は、アイデンティティを肥大させていく。その結果、社会に衝撃を与える犯罪を誘発することは、これまでしばしば見られたことであるが、皆が皆そうなるわけではもちろんなく、多くの者は役を振られないまま、舞台から静かに去って行く。彼の体は、発見されるまで「死者」としての役割すら与えられない。 再び、演劇の話に戻れば、そういう孤独な人間は言わば、「観客のないステージ上の役者」である。彼の演技は、次第に様式を喪失し、抑制を欠いた誇張的なものになり、醜くなる。そうなればなるほど、彼を生身の人間として見ようという観客はいなくなる。 役割を喪失した人間とは、演じない人間なのではない。演じても、誰も見てくれない人間である。 「人間」という言葉は、中国語にもあるが、漢文ではそれを「じんかん」と読み、「世間」とほぼ同義だ。だから、「人」は「間」においてしか生きられない存在なのだとも言える。 自分は、今は誰ともしれぬ読者に向かって、発言している最中であり、観客の顔がないステージで独白している役者のようなものだ。 あと、数時間もすれば妻が起きてきて、今日一日の予定、エリーゼのこと、取組み始めた発表会用の曲のこと、円安がどこまで続くのかなどということ、いろいろな科白のやりとりをすることになる。それらは、定型的でもあり、即興的でもある。 そして9時には出勤し、今日は3時間の授業で、問題文を素材として、生徒たちにいろいろな話をする「国語教師」という役割を演ずることになる。同僚との会話では、いろいろな相談にのるベテラン教員の役、長年一緒に勤めてきた半ば友人と言えるような間柄の同僚には、また少し違う役、これらは幕間の冗談のようなシーンとも言える。 そして、午後は健康麻雀に久々に顔を出す予定だが、そこでは正体はよく分からないが、何だか麻雀が強い、軽口を叩く雀爺の役を演ずる。 夜は理事会で、もうすぐ任期が終わる理事長の役回りを演じなければならない。 つまり一人二役どころか、いくつもの役を自分は一日のうちで演じなければならない。その役の「間」を自分は生きている。つまり、多様な人間関係の中で、さまざまな「自分」を演じている。 しかし、その場面、場面を一貫する「自分」がある。もし、その役割が、仮にすべて失われれば、一貫する「自分」、すなわちアイデンティティは失われる。 前回の最後に、こう書いた。 このように見てくれば、人間の本質が「役割を演じる」ことにあるというのも、ある意味では肯けることだ。が、それは違う、演技などではない、必死に生きているだけだ、という反論は当然あるだろう。次回は、そのことについて。 この反論に関しては、もう答えたつもりだが、「必死に生きている」というのは「演技していることを忘れるほど、役に没頭している」ということでもあり、「役を振られないこと」への弁解でもあるだろう。前者なら、それは健康な生だが、後者は病的だとも言える。 (この項、さらに続きます) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.11.09 05:39:42
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