カテゴリ:哲学論考
演劇的人間 2
の続きである。 「役割を演じる」などというレトリックにかまっている暇はない、自分はこの社会で必死に生きているだけなのだ、という人間に対して、こう答えよう。 「いや、あなたは『必死に生きている人間』という役割を演じているのだ」と。ますますかれは激高するかもしれないが、必死で生きる人間が劇中に登場しても、少しもおかしくはない。彼は「怠惰な人間たち」のコントラストとして造形されているのかもしれないし、あるいは「労働」などということと無縁の人間たちの中で「哀れ極まりない人間」として造形されているのかもしれない。 いずれにせよ、彼の「役割」は、「舞台」上で「造られる」のであり、彼自身が「舞台」を作るわけにはいかない。もちろん、役者は舞台の意味づけをするのだから、その意味では舞台を創るのだが、舞台装置までは関与していない。それどころか、台本の全体や、他の役者の「造形」にすら関与できない。 しかし、彼がどのように自らを演じようと、それは舞台上で一定の意味を創り出すことになる。その意味で「職業」は、典型的な「役割」である。この「役割」の中で、退場するものもいるし、この役割を終えてから、しばらくは舞台上に留まる者もいる。「社会」という舞台の人間関係の網の目の中で、「職業」ほど分かりやすく、安定的に演じやすい役はないのだ。 あるいは「家族」。父親、夫としての役割を自分は、演じ続けているのだが、最近「じいちゃん」という新たな役割も加わった。無論、役者は舞台上の感情を生きているのであって、その演技は彼の日常の演技を相対化するのだ、というストラスニフスキーの演劇論がここでも妥当する。演技は「日常の再現」などでは決してなく、自己を定位し、しかし同時に、批判するものである。 「必死に生きる人間」の役を演じる者は、そのことによって「必死に生きる人間」になり、また同時に「必死に生きる人間」としての自己を無化するのだ。つまり、それをいったんゼロの地平に置いてみることができる。「無化」するのは、彼が自分が「演じている」という意識を持つときである。それが、「演技」だと自覚すれば、別の「演技」の可能性も生まれてくる。例えば、「自らの不幸を他者のせいだと考え、恨みを募らせる人間」、「自暴自棄となる人間」、「貧困を受け入れ自足する人間」、「信仰によって救われようとする人間」・・・さまざまな人間類型の中で、彼は今、「必死に生きる人間」を演じているのである。もちろん、彼は無限の選択可能性は持っていない。彼が、突然「余裕を持って自らの人生を楽しむ人間」を演じ始めることは、ほぼ無理な話だ。しかし、「それを夢想する人間」なら演じられる。つまり、彼には舞台上の人間が変わっていくように、変わる可能性が担保される。 人間の本質を「演劇性」に見るのは、まさにその意味であり、我々は自らの現在を、舞台上の自分と仮想してみることによって、そのあり方を、言葉の正しい意味で「批判」できるのだ。 (この項、もう少し続きます) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.11.23 07:14:34
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