カテゴリ:論考集
昨年終わりから綴ってきた「教師論」の4回目。比較的時間の取れる時に、綴っていこうと考えていた。
教師を「生徒の支配者」と「生徒の成長を喜ぶ者」に大別し、前者について前回まで論じてきた。 よく「教師なんて、実際の社会では通用しない」という言い方をされるが、それは大体二つの意味でそう言われる。一つは「実際の社会では、『支配ー命令関係』の中で人間は生きていて、教師のように一方的に子どもを支配するようなことはできず、誰かに支配されざるを得ないのだ」という意味だ。つまり、彼は人間関係を「支配ー被支配」関係としてしか捉えていない。その上で、被支配者である自分のような生き方は、相手が子どもとはいえ、支配者である教師にはできない、と言っているのだ。彼は大体、一流企業ではない会社に勤務していて、1970年代の「人材確保法」以来、地方公務員よりは水準が高くなった教師の収入にも及ばない給与で生活している。そこには、弱者のルサンチマン(怨恨)がこもっている。 もう一つは、「実際の社会では、支配できるのは一部のエリートであり、そこに至るには大変な苦労を伴う。それに比べて、教師は明らかに何の努力もせず、最初から支配者として子どもの前に君臨するのだから、楽な仕事だ」という意味である。彼らは、もちろん教師には得られないような給与を得ていて、強者としての立場から、教師を見下す。が、彼らもまた「支配ー被支配」の人間関係の中で生きているのは、先の場合と同様である。彼らは、教員が校長になった時に、特にその比率が非常に低い高等学校で校長になった時に、やっと自分たちの「仲間」、といっても、相当下のランクの仲間として教師を認める。校長だとしてもそれはたかだか数十人の教諭等のリーダーであり、公立であれば教育委員会という行政組織の言いなりになる「中間管理職」にすぎない。 しかし、そのような彼らにしても「生徒」だった時代もあり、何人かの良い教員には出会っている。同窓会などで、懐かしい「恩師」を呼ぼうとするのだが、それは必ずしも生徒を支配する教師ではない。そうではなく、支配者としてふるまうこともなく、生徒を選別しなかった教師をぜひ呼びたいと考えるようだ。ところが、そういう教員は呼ばれても、あまり来てくれないことも多い。 RCサクセションの『ボクの好きな先生』にはそういう教員、つまり生徒を選別しない、というかそもそも生徒とあまり深く関わらず、飄々と生きている美術教師が描かれている。 タバコを吸いながら あの部屋にいつも一人 ボクと同じなんだ 職員室が嫌いなのさ ボクの好きな先生 ボクの好きなおじさん タバコを吸いながら 絵の具の匂いのあの部屋で 劣等生のこのボクに 素敵な話をしてくれる ボクの好きな先生 ボクの好きなおじさん (RCサクセション 『ボクの好きな先生』) 。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.01.05 06:06:42
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