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2004年09月20日
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カテゴリ:法喜の教え
今回は祈りについてです。何の為に祈るんでしょうかね?キリスト教では既に天国は存在しています。誰でも神の審判後天国に行けるのです。神の審判とは果たして死後なのでしょうか?天国の道は死ぬ前から開かれています。そう考えると神の審判は死後ではありませんね。極楽に行くには審判は必要なのでしょうか?いやだって仏教には極楽が無いので行きたくてもいけません。別に天国や極楽に行きたいが為に祈るわけではないのでしょうか。イスラムは神への服従です。キリスト教の祈りは神を称えるものでしょう。仏教のいのりはと行く前にまずはこんな話しを。仏教では祈りは念仏と言いますね。キリスト教もイスラム教も祈りは人間が神にするものなんです。神からは祈りの言葉は無いのではないでしょうか。所が仏教は神も念仏するのです。また話しがずれて。誰かがあなたの為に何かをしてくれたら、それに応えたくなるのが人間です。はい、話を戻して。仏教では信者は個別に仏に念仏してるように見えますが、どうやらこれは間違えのようです。仏は今も私達の為に念仏を唱えています。そして人間が念仏を唱えるとなんと仏の念仏と、私達の念仏が共鳴し合うということなんです。人間と仏は相互関係を結んでいるわけです。そして仏は人間のみならず全ての生命の為に念仏を唱え続けているのです。古来一神教は絶対的な神からの一方的な人間への語り掛けでした。ユダヤ、キリスト、イスラム全て同じ神です。ただ預言者が違うだけ。一神教の神は常に絶対的でなくてはいけなかったのです。そこには人間のとうてい理解出来ない世界が広がっているのです。そもそも神を知ることは出来ないのが一神教なんです。多神教のようにあやふやではいけないのです。だから自然と上下関係のようなものが生まれています。祈りに関してもそうです。人間の一方的な祈りは神がそれを受け入れてくれるかどうかは神のみぞ知るんです。これが一神教です。しかし仏教の場合はどうやら一方的ではないですね。仏と人間の念仏が重なっているのですから。





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最終更新日  2004年09月20日 22時05分19秒
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