|
テーマ:宗教的生活(68)
カテゴリ:法喜の教え
我々人間は自分の欲望を満たしながら、日々の生活を楽しく送ろうとしている。もし自分の意に反する事が起きたり望まない事が行われると、苛つき不機嫌になる。常に自分の思うようになることを望んでいる。しかしあなたは多くを望みすぎてはいないだろうか?
裁きの門を通るのを望む者は、それだけの行いをしたものだけである。望むだけでは天国へはいけないのである。 日常生活でも同じである。 試験に受かるものは、それだけの行為をしたものである。 自分がその準備もせずに、得ようとするのは間違いではなかろうか? 我々は常に何かを望んでいる。しかし得られるものは、その人の現状に見合うもののみ。願いがかなわないのであれば、あなたはまだする事があるという事である。他人が自分の意に反する事をしたのは、その行為者に非があるのでなく、自分が至らないという事なのだ。 良い部下が付かない人、それは部下だけでなくあなた自身に非があるのではなかろうか?試験に受からない人、試験が悪いのだろうか?良い友人に恵まれない人、あなたは望むだけではなかろうか?仕事に恵まれない人、理想だけを追っていないだろうか?理想の恋人が現れない人、あなたが理想的であるだろうか?仕事に成果を出したければ、それだけの努力をするべきだ。よいサービスを受けたければそれだけあなたのマナーも問われる。 何かを望む時は、受け入れるあなたにもその準備が必要なのである。 自分に受け入れる姿勢が出来ていないのに、不満がるのはおかしな話ではなかろうか?それはまるで目の前に欲しいものがあるのに”手を出さない”で手に入らないと言って悩んでいるみたいだ。 旅行に行きたければ、行きたいと思っているだけでなく、ツアーに申し込んだり航空券を買うだろう。 あなたが何かを望んで得られない時、それはあなたに非があるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年07月23日 21時28分34秒
コメント(0) | コメントを書く |
|